御橋少年1969

幻の自転車 / 冬の散歩道 ~ 御橋逍遥(その2)

この先を右折すると、御橋グランド〜公園だ。
この先を右折すると、御橋グランド〜公園だ。

100211(木)遊星年代記[002]1969年 夏 

 長崎県吉井町 御橋

7月20日、宇宙船アポロ11号の人類初月面着陸で始まったその年の夏休み、小学5年生の僕は、宇宙のことも気になりつつ、近頃友達の誰もが持ち始めた自転車のことで、ほぼ頭は一杯だった。Tsuyoshiチャンところは、一つ年下のSちゃんも、Tちゃんも、既に買ってもらってる

現在のグランド。昔はフェンスなど無かった。
現在のグランド。昔はフェンスなど無かった。

その近く住んでいるKちゃんもだ。しかし僕は、兄貴のお下がりの自転車。ちょっと古くさい形で、車体も重く乗りにくい。「ああ~僕も自分の自転車ほシー~」しかし中々買ってもらえない。少年雑誌の裏に載ってる、10段変則ギアー付き電子フラッシャーのセミドロップハンドル。憧れの一台だった。

御橋グランドから八幡神社に続く道。
御橋グランドから八幡神社に続く道。

夏休みの間は午後からソフトボールの練習だ。毎年、夏休みの終わりに地域対抗の大会があるので、その為に、たいてい僕たちは僕たちの住んでいる地域の中心地、「御橋」(おはし)のグランドや八幡神社の境内の公園で、ソフトポールの練習をやっていたのだ。来る日も来る日も夏の間じゅう。いったい何がそんなに楽しかったのか?

今となっては思い出せないが。

八幡神社境内裏。色んな思い出が一杯だ。
八幡神社境内裏。色んな思い出が一杯だ。

ソフトボールの練習以外にも近くの佐々川を探検したり、洞窟を探検したり、当時既に空き家が多くなっていた炭住街が、僕たちの格好の遊び場となり忍び込んでは探検したり、大規模なかくれんぼをしたり、地域は自分たちの領土、世界は僕たちの遊びの王國、我がもの顔で駆けずり廻っていたものだった。

隣接してる公民館。ここで習字を習った事も。
隣接してる公民館。ここで習字を習った事も。

御橋までは自転車で10分位。県道の道は行きはずっと緩やかな下り坂なので楽ちん。途中でたいていTsuyoshiちゃんや、Sちゃん、TちゃんやKちゃんの自転車団に合流するのだった。

御橋グランドは旧御橋炭坑の所有物で、全盛期の頃はここで運動会とかがあっていたそうだ。

今もある御橋保育園。一年行く。松組だった。
今もある御橋保育園。一年行く。松組だった。

ソフトボールの練習と言っても、だいたい6、7人集まる位なので、一人がバッティグをし、後は守備をしてゴロやフライを取ったり、三角ベースでやったり結構アバウトなものだった。いや、たぶん自分がそうだったというだけで、好きな人はもっと熱心だったと思う。僕はそこまでの熱意は無かったように思う。

このりっばな樹にはフクロウがいた。
このりっばな樹にはフクロウがいた。

八幡神社のある公園は、これも炭坑が全盛期の頃は、鹿がいる小さな動物園があったり入口には公園専用のかわいい売店があっておじさんが駄菓子や遊び道具を売っていた。また、公園の中程には池もあって鯉がいて噴水もあったと思う。ロケットの形をし銀色をした高さ2.5m

僕たちの元祖ホームグラウンド。三角ベースでやっていた。沢山の子供たちが遊んでいた。
僕たちの元祖ホームグラウンド。三角ベースでやっていた。沢山の子供たちが遊んでいた。

 

位のモニュメントがありその上の方には地球を表してたのか球体の容れ物がありその中にまだ珍しかった街頭TVがあったのを、公園に隣接する保育園に通っていた頃見かけていた。炭坑が景気がいい頃はこの公園も人が一杯いたのだが、僕たちがこの境内でソフトボールや、缶蹴り遊びや、飛行機を飛ばしたりしする頃は、既に鹿もいなくて、入口の売店もなくなり、池も水が抜かれていたと思う。

 

でも公園は沢山の木立ちがあって涼しいし、そこそこ広い。まだまだ僕等の格好の遊び場っだったのだ。遊び疲れて喉が乾いたりお腹が空くと、八幡神社すぐ側の、まだ炭坑の住宅が残っている一画に、おばさんがやっている小さな個人商店があり、駄菓子を買って食べ、そこで当時出て間もないベビーコーラの、摩訶不思議な味を味わっていた。子供ながら最初に飲んだ時はカルチャーショック!!、例外なく誰もがすぐ虜になってしまっタ。チクロという有害な化学物質が問題になっていつの間にか店から消えて行ったけど、時すでに遅しで、僕等はしっかり飲んでしまっていたと思う。

 

この夏、海の向こうの米国ニューヨーク郊外ベゼルの丘では、40万人の若者による「愛と平和と自由」のウッドストック音楽祭があり、学生運動が活発化。フォークゲリラが新宿に出現し、佐世保では、高校生の村上龍が高校をバリケード封鎖、世界は激動してたのだが、日本の西の果ての田舎町の僕等は、『おお~モーレツ!』とか言いながら、女の子のスカートをめくったリ、コント55号を見たりで、単なるノーテンキで幸せなガキだった。

 

長い夏休みが終わり、その年が終わっても、そして小学6年になっても、自転車は買ってもらえなかった。やがて僕は中学生になり、いつしか自転車ナンテ、もう、どうでも良くなってイタ(笑)。


      御橋公園逍遥 / 冬の散歩道2010

    image BGM: 「Passage」/ 山崎まさよし(1999)


 

 

 

 

コメント: 17
  • #17

    ストレンジ・拝 (土曜日, 20 8月 2016 02:06)

    あみさん、メッセージありがとうございます。

    懐かしい場所へ行って来られたのですね。それは良かった良かった!
    今日は蒸し暑い日でしたが、それでも雨の日とかでなくて良かったですね。遠方から遥々来られたのですから、やはり晴れた日に訪れたいものです。あみさんの日頃の賜物ですね。

    拙ブログを書いた時は、このように、かつて炭坑に住んでおられた方の目に止まる等とは、全く考えておりませんでした。かようなモノでも、何かお役に立つのでしたら素直に幸いであります。

    自分も父亡き後、独りで実家に居た母が病気になり、永く県外に居た自分が故郷に戻って来て母を介護し、看取り、今は独りで実家に住んでいます。

    50代も半ばを越えると、人生を残り時間から逆算して生きる感じですね。先天性のおみ足の御不自由さは、自分等が想像し得ない御苦労がおありの事と思います。ですが、生きて行きましょうね。

    …そう、それは、もしかしたら、「ギフト」だったのかも知れません。
    お陰で弱者の立場の方の、お気持ちが判る優しさを、得ることが出来たのかも知れませんね。

    どうぞ、今度は、母上様と妹さんとご一緒に、是非おいで下さい。
    人生、訪れたい場所があるのでしたら、行ける時に行って、成る可く
    悔いのないようにしておきたいものですね。

    余談ですが、このブログと似たブログをもうひとつ書いています。
    拙HPのカテゴリー[遊星彷徨]内、「遠き友へ 〜 冬の散歩道 2010 -旧友と自分の町を歩く」(2010/12/17)も、同じようなテイストの記事です。(小学校・炭住街の後も出て来ます)良かったらご笑覧頂けると嬉しいです。

    あみさんの人生に良き事が雪崩のように起きますように!
    どうぞお気をつけてお帰り下さい。
    そして、また、来たくなったらいつでもお出で下さい。
    あみさんの御橋は、いつもそこに静かに在ります。

    ありがとうございます。







  • #16

    あみ (土曜日, 20 8月 2016 00:25)

    こんばんわm(__)m 今日、御橋保育園の場所まで行って来ました。昔は園の前に小さい川が流れてて少しアーチになってる橋が架かっていたと記憶してましたが、記憶違いか無かったです。 私は、先天性の股関節脱臼で50歳の声聞いてから段々と杖なくしては歩くのが大変になって来てます。今回炭坑社宅から車で吉井南小学校方面に向かいましたが中々の距離でした。昔の(小3)の私はそんな距離を2本の足で歩いて小学校に通えてたんだなって思いました。父は13年前に他界しましたが、母はまだ健在なので妹と3人で来れたら言いなって思いました。追伸・当時公民館でか、「赤影参上」見た思いでも有りました。明日の早朝便で愛知県に帰ります。思い出の記憶のお手伝いありがとうございました☺またHPのぞきに来ます。

  • #15

    ストレンジ・N (水曜日, 17 8月 2016 00:54)

    あみさんへ、

    妹さんが通っておられた御橋保育園は、ずうっと、ほぼ往時のままの建物だったのですが、つい最近、なんだか新しい建物になってるようです。

    少し残念です。時の流れは、いた仕方ないものがありますね。
    御橋の何処かで、かつての自分と出会われる、と良いですね。
    良い事がありますように…。

  • #14

    あみ (水曜日, 17 8月 2016 00:17)

    夜分のメールに早々お返事頂きありがとうございますm(__)m

  • #13

    ストレンジ・N (火曜日, 16 8月 2016 23:46)

    あみさん、
    当ブログを見つけて頂き、メッセージをありがとうございます。

    かつて御橋にいらしたのですね。それはそれは…。
    昭和天皇〜御見送りの記憶、自分も有ります(笑)。

    炭坑近くのプールは、今でもありますよ。
    自分もつい2日前、遠くから帰省した兄の希望で、
    プールの傍を車で通って来ました。

    地域の親御さんだと思いますが、日傘をさして、
    のんびり監視されてる中、数人の子どもたちが遊んでました。
    そこだけは往時と変わらない風景でした。
    泳いだ後は、目が少々赤くなり、
    世界がコバルト色に見えるのも(笑)懐かしい思い出です。

    愛知県にも多くの方が引っ越して行かれたのを憶えています。
    炭住街の面影は、さすがに、もうありませんが、
    遠方からわざわざおいでになられたのですから、
    どうぞ、心置きなく、御橋の風景を散策されて行かれて下さいね。

    今回の旅が、あみさんとって、
    佳き経験になられることをお祈り致します。
    この度はありがとうございます。

    (ストレンジ・N 拝)


  • #12

    あみ (火曜日, 16 8月 2016 23:18)

    始めまして、今回縁あって御橋近くの「サンパーク吉井」さんに宿泊の計画を立ててふっと昔北松浦郡の吉井南小学校に小学校3年まで居た記憶を思い出し、父が炭坑で働いていて御橋って所に住んでた事を思い出し検索してたら貴方のブログに行き着きメールさせて頂きました。私は36年生まれで現在は愛知県に住んでいる者です。昭和天皇、皇后様が金色の機関車に乗って手を振って下さるのを日の丸の旗を降ってお見送りした記憶が有ります。そんな時代です。炭坑の住宅近くのプールはまだ有りますか?有れば、明日、明後日あたりに訪れてみたいと思います。お返事頂けたら嬉しいです。

  • #11

    planetary-n (金曜日, 18 10月 2013 22:31)

    MMさん、再びの書き込み頂き恐縮です。ありがとうございます。

    …そうですか、『レールバス』で世知原小学校へ通っておいでだったのですね。レールバスの駅は、御橋の中心部にはなかったと思いますので、御橋より一キロ程、世知原寄りにある「祝橋駅」ではなかったでしょうか? (当、遊星測候所は、その旧祝橋駅近くにヒッソリと在りマス)

    「肥前炭坑」久し振りにこの名前を聞きました。そうです、そういう炭坑がありました。御橋の北側、佐々川の釣り橋を渡って行くそのまた北側、そこは自分の町に近いのに、行政的にはお隣の世知原町の管轄になっていました。今でもそうです。ですのでMMさんは、御橋地区住んでいながらお隣の世知原小学校に通われたのですね。

    小学校では、あまり良い思い出はなかったのですね。転校生の宿命を背負っておられた…。多感な時期のそれは、つらい思い出となりますね。

    田舎の学校は生徒も先生も視野が狭いものです。それはある意味しかたがないことかも知れません。その地域から一生出ないで生活してる方も少なくないのですからね。

    MMさんの中に、あの頃の御橋少年Mクンが、今でも息づいている気がします。そのことにまずMさん自身が気付きましょう。M少年は、これまでもずうとMさんの中に居たのですが、Mさんがあまりに多忙だったので気付かなかったのかも知れません。

    M少年はMさんに何か伝えたいメッセージがありそうです。自分の中の少年Mクンに耳を傾けましょう。そして、どうしてほしい?と聴いて見ましょう。M少年はオジサンになった未来の自分に何を言いたいのでしょう?

    寂しかったのかもしれません。 もっと自分にかまってほしかったのかも知れません。もっと遊びたいのかもしれません。じっくり聴いて上げて、イメージで良いですからM少年をしっかり抱きしめてあげましょう。そして「モウ、ダイジョウブ」だと言うイメージを送りましょう。

    そうすることで、自分の中の、いわゆるインナーチャイルドを癒すことが出来ます。御橋少年Mクンは落ち着きます。これは大事な作業です。

    そしていつか、御橋にお出でになれば良いではないですか。同じ県ですし、その気になれば可能です。有り難いことにまだ昔の面影を探すことが出来ます。(これが都市だと、もう〜それこそ痕跡さえもなく変貌してしまうことはMMさんもご存知かと思います)

    御橋は、まだ幸せな方です。その時は、もしよろしければご一報下さい。おせっかいながら何かお手伝い出来る事があるかも知れません。

    母上様はお元気でいらっしゃるのですね。お元気なうちにしっかり逢われることをおすすめします。亡くなるともう、その声さえも、あたりまえですが聞くことが出来ません。

    思わずおせっかいなことを書いてしまいました。自分もどうかしています。(笑) 失礼をお許し下さい。

    MMさんをはじめ、このブログを見つけられた、御橋にご縁のある方全てに、今日、イメージBGMをお送りさせて頂ました。楽しんで頂けたら嬉しいです。
    ありがとうございます。

  • #10

    MM (金曜日, 18 10月 2013 16:51)

    早速のお返事に感激しております。
    先に書き込む時は、些かの興奮に動揺して年代を間違えておりました。私が御橋に住んでいたのは昭和37年の3月末から7月末頃だったようです。父が肥前炭鉱に勤めていた関係(?)で、近所の子たちとは別に、レールバスに乗って世知原小学校へ通っていました。
    すぐの新入生歓迎遠足では、まだ友だちもいず、寂しくて
    独りで弁当を食べながら涙を流しました。
    今にして思えば、転入生への配慮も何らなく、体育の時間にラジオ体操の動きの一部がおかしいと、授業が終わるまでみんなの前でやらされて泣いたこと、梅雨時の車窓に見える灰色の風景等、世知原小学校の思い出は今も良いものが有りません。(ラジオ体操のやり方は私が正しかった事を知るのは大人になってからです。)
    前田洋服店の1才程年上の兄ちゃんとはよく遊びました。どんこ釣りをしたり、近くの大きな砂岩の岩に登ったり、八幡神社の猿をからかったり。
    さよならも言わずに引っ越しましたが、よく一緒に遊んだ事がとても懐かしく思い出されます。
    「人生に良いことがありますよう・・」の言葉、胸に沁みます。涙が出ました。こちらこそありがとうございます。
    僅かの間でしたが。「御橋」・・、懐かしい所です。
    父は亡くなりましたが、母は愛知県で達者に暮らしています。大学を出たら佐世保に帰ろうと思い、県職を勤め、
    今年定年退職をして五島市に暮らしております。女房の
    里です。30数年をこちらで過ごしていますが、今でも望郷の思いは尽きず、せめては佐世保に帰ろうと思案しているところです。つまらぬ個人的な話で恐縮です。
    この感激にしばらくは浸りつつ、思い出を肴に酒でも飲みたいと思っております。有難うございました。

  • #9

    planetary-n (木曜日, 17 10月 2013 19:01)

    MMさん初めまして。
    書き込みを頂きまことにありがとうございます。

    昭和36年に小学4年生でいらっしゃったということは、私より約10才程年上でいらっしゃいますね。それも3か月間の思い出なのですね。星の数程あるウェブの世界から、ようこそこちらにおいで頂き、まことにありがとうございます。

    このブログを書いてから、MMさんのように、元御橋炭坑とご縁のあられた方々からメールを頂いたりしました。それらを読むにつけ、ああ〜人は誰でも、自らの少年時代を辿り、自分の人生の軌跡を確認したいものなのだなぁ〜と思った次第です。もちろん私もそうです。

    自分のつたないブログが、ほんの僅かでもそれらにお役に立てれば嬉しいです。

    「おはし会館」では、怪獣映画を見た記憶があります。『ゴジラ対エビラ、南海の大決戦!』瞬きすらモッタイなく、口を開けぱなし、かたずを飲んで観ていたのを憶えています。

    前田洋服店は、自分も知っています。目の大きいどちらかというと静かで優しい叔母さんがやっておられたと思います。地域の方はあそこのお店にお世話になった方もかったハズです。お店が道路に面してガラス張りだった記憶があり、学校帰りにいつも叔母さんのお仕事振りを見て帰ってました。

    今は、御橋を離れてお暮らしですか? どうぞ、いつかMMさんが4年生の頃お過ごしになった、こちらへお出で下さいね。

    記憶の中の風景と、現在の風景を交差させると、思ってもみない発見や新しい記憶が甦がえったりするものデス。静かで空気の良い当地の風景の中、少年時代の自分と対話し共振すると、MMさんの人生に何かが生まれて来るに違いありません。自分のかけがえのない人生の物語を大切に出来たら良いですね。

    今の御橋(上橋川内)から情報を発信してる別のサイトもあります。良かったらこちらも。
    http://blogs.yahoo.co.jp/kamihasikawatiku


    当、遊星測候所は現在のブログの容量がほぼ満杯になったので、第2期をそろそろ開設しなくてはですが、最近は開店休業状態デス。記憶年代記も、また書けたらなと思います。気が向かれたら、またお越し下さい。

    この度はありがとうございました。
    MMさんの人生に良いことがありますように!
    (ストレンジ・N拝)

  • #8

    MM (木曜日, 17 10月 2013 15:54)

    昭和36年の4月から3か月間、小学校4年生の私は暮らしていた。八幡神社、当時は猿がいた。街頭テレビがあった。近くには茶色の流れをした佐々川にかかる吊り橋があった。おはし会館で観た「壁の中の美女」という怪談時代劇映画に泣き叫んだ。父も母もまだ若かった。遠い遠い日。前田洋服店の女の子、どうしているだろうか。

  • #7

    planetary-n (水曜日, 03 8月 2011 22:45)


    furudonさん、初めまして。『遊星測候所』訪れて頂き、恐縮です。まぁ〜、この広大なネットの海を、どうやってこちらへ辿り着かれましたでしょう か…? ともあれ、ようこそおいで頂きました!そして、書き込みまで頂きまして、心から感謝です。ありがとうございます!

    

…そうですね〜御橋保育園沿いの小川は、ホタルの好物である、カワミナが居ることから、現在でもホタルの貴重な棲息地とされてます。

    

しかし、去年だったか、隣接の土地に工場がやって来て、この小川を暗渠にしたような…気配です。かつて炭坑町だった故に、その後も炭住街跡地が工業企業誘致の土地になっており、昨年工場が建ったという流れです。

    

地域に産業はないし、若い人の働く場所もないので、工場が来るのは良い面もあるのですが、その分、こういう自然環境にも配慮がほしいところですね。



    子供達の憧れの駄菓子屋さんには、「高原商店」というのがありましたね。子供を相手するのがうまい、お爺さんと優しいお婆さんがやっていたと思います。他にも、回転焼き屋さんや、時代によっては映画館もありましたね。

    

そして、ご指摘の通り、昭和42年頃に、大きな水害がありました。佐々川があんなに氾濫したのは、後にも先にもあれが初めて。最大ではないでしょうか。赤痢が流行って学校が休みになりました。



    炭坑町の性格上、炭坑が閉山になると、その関係の友人たちは、近郊の町や関西方面等に引っ越して行きました。そういう方達にとっても、懐かしい場所なのだと思います。furudonさんも、そういう中のお一人なのかも…と思ったりします。

    

かつての御橋の町並みを、当時の写真等を集め、参考にし、ヒロシマでやったように、GCで再現、というのはどうだろう…。と、思ったりはします。

『記憶遺産』という言葉も最近あるようですが、残念ながら、自分はそれ程までは、記憶の町並みに熱心ではないので、地域の写真等のご期待に十分応えることが出来ないかもです。



    ですが最新のブログで、初めて開催された御橋を含むこの地域の夏祭りの模様をUPしましたように、時折、思い出したように取り上げる予定です。

    

あまり期待されずに、思い出した折りにでもお訪ね頂けたら嬉しいです。

過去のブログに、わざわざ書き込み頂いたお礼、と言っては何ですが、『遠い空の向こうに』(1999米)という洋画を、もし、未見でしたらお薦めします。 御橋みたいな炭坑町が舞台で、『スタンド・バイ・ミー』のような実話です。お近くのレンタル店ででも探して見て下さい。良い映画ですよ〜。

    

この度はありがとうございました。今後とも、
気が向かれましたら、どうぞよろしくです。それでは…。 (ストレンジ・N)

  • #6

    furudon (水曜日, 03 8月 2011 00:22)

    拝見しまして、大変懐かしく思い、書き込んでいます。
    私も八幡神社で遊んでいました。御橋保育園の脇を流れる
    小川ではホタルが飛び、ドジョウがいたのを思い出します。当時は炭鉱長屋も活気があり、子供の数も大勢でした。昭和42年ごろ大きな洪水があり、共同浴場の近くの
    広場まで浸水したのを思い出します。子供相手のたこ焼き屋や駄菓子屋がたくさんありましたね。
    今後も写真など載せていただきたく思います。
    懐かしい、良い思い出をありがとうございました。

  • #5

    planetary-n (火曜日, 16 2月 2010 23:47)

    tsuyoshiさん、ありがとうございます。

    ベーシックインカムの考え方は本当に最近知りました。まだ確認中で、自分の言葉になってないのですが、全ての国民の最低限の生活保証を無条件でやるというのが良さそうですね。

    そうなると、こと、農家等も実にやりやすくなります。天候などで不可抗力的に不作でも最低の生活保障があると、全然心持ちが違いますし何かに挑戦してみようという気にもなれると思います。現実的に何か勤めながらの農業はまず、非常に無理があり、どちらにも迷惑が掛かってしまいます。

    時代はそろそろこういう考え方に移行していってもいいのでは?と思います。声高にではなく、静かに広まるといいなと。私などリアルな問題として、今後注目したいです。

  • #4

    tsuyoshi (火曜日, 16 2月 2010 23:09)

    ベーシックインカム。紹介の記事、何件か読んでみました。まだ理解はしてないけど、こういう制度があれば、自分のやりたい事や探究したいことを、突き詰めることができる人が増えるだろうね。
    普通に生きたい人(これも決して悪いことではないと断言できる。)は、そうすることもできるし、頑張ってお金を稼ぎたい人は稼げる。ただし、お金を稼ぐということに今よりももっと意義があることになるね。
    また、そういうことを理解できるひとじゃないと、頑張る気は起きないんだろうね。
    自分の生き方を自分で決められて、他人の生き方を理解し応援できるくらいに人類が成長したときに効果がでてくるのかな?
    俺はどの位置に収まるかな?と、しばし考えました。
    (*^^)v

  • #3

    planetary-n (火曜日, 16 2月 2010 00:59)

    tsuyoshiさん、2つもコメント、まことにありがとうございます。

    

自転車を一番乗り回す年代というのは、何時の時代も小学高学年位、人生で最も遊び廻りたい年頃だと思います。映画『スタンド・バイ・ミー』や、スピルバーグが指揮をした『グーニーズ』 、或は『E.T』、そして、最近話題だった『20世紀少年』などを観ると、「ああ~僕たちもこんな風だったなぁ~」と思ったりします。

    

他にもそういう映画は探せばあるかと思いますが、とにかく、明日への悩みも無いそんな時代を、緑はあり、山もあり、川もあり、海もそう遠くなく、地域の子供会で毎年皆んなで海水浴に行ける…そういう町で、何も考えずに思う存分遊べた僕等は、幸せな少年時代を過ごしたのでは?と思います。知らないうちに、惑星ハシグチや御橋の自然や風土に育まれていたのだと思うわけです。感謝ですね…。

    

…確かに当時の自転車は、やたらとバックミラーが着いてましたね(笑)。 交通事情は現在の方が何十倍も悪いのに、今の自転車には殆ど付いてないのが面白いデス。今思えば電子フラッシャーや、10段式ギアなんて、車体が重くなるだけなのにね(笑)、しかし、あの、燕型のセミドロップハンドルは、今でも少し憧れますね〜。デザイン的に見てもカッコ良かったデス。

    

2学期の始めに対抗試合は開催されていたと思います。たいていいつも、「東立石」とか「樋口」とか、町の中心部地域が優勝?してナンダカ全く盛り上がらない消化試合のようだったと思います。僕は、試合の勝ち負けは内心どうでも良くて、大会が終わると「やれやれ…」とホっとし、秋に向けて自分の世界モードになっていってました(笑)。



    2B弾遊び、よくやりましたね。残酷なこともやりました。元々、子供は無垢と残酷な面を持ち合わせていますね。しかし、 おっしゃるように、そういう経験から自然に対する畏怖の念とかを学ぶのだと思います。「7歳までは神の子」という言葉もありますが、(7歳過ぎてましたが!)その位までの殺生は大目に見てもらえるのでは?と思います。

    

そういったような文面を、最近亡くなった昆虫学者の日高敏隆氏か、奥本大三郎氏の本で昔、見つけて、スゴ~く安心したのを覚えてます(笑)。シッカリ遊ばないと「生きていること」の不思議さとかは体感出来ない気がしますね。

    


御橋公園は、日曜日の午後に行ったのですが、ひとっ子一人、いませんでした。静かでただ風か吹いているだけ…。そこで独りであちこちデジカメ撮ってる私はしっかり変なオジサンだったと思います。ま、いいんですが(笑)。



    ここが都市空間にあったら、結構な面積のいい公園ですよね。一体子供たちは何処へ行ってしまったのでしょう?子供の数も少ないせいもあるかと思いますが、ゲーム等に血道を上げているのでしょうかね。子供を連れた親もいません。皆んな忙しく貴重な休日に散歩なんてやってられないのでしょう。

    

ミヒャエル・エンデの名作『モモ』ではないですが、この世界がいつの間にか「時間泥棒」に支配されてしまったからだと(私は)思います。世界から時間を取り戻さねばなりまセン。もう少し言及すると、時間=貨幣に換算される現代のシステムに、何か人を幸せにしないモノがあるのだと思います。21世紀はこれらが変化してばいいなと、誰もいない公園を撮影して思った次第デス。

    

最近、友人のメルマガで、『ベーシックインカム』という考え方を知ったのですがこういうのが、今後広まればいいなぁ~と思っています。これを理解するための、ドイツの映画(日本語字幕付き)がネットに在ります。(長くて私も途中までなのですが…)

  • #2

    tsuyoshi (金曜日, 12 2月 2010 22:37)

    よみがえった記憶。
    そうそう。みんなで自転車乗って遊びまわっていたね。その日も私たち(tsuyoshi・S・T)は自転車で御橋公園を目指していた。もしかしたらnさんも合流していたかも?
    今では信じられないが、舗装されてまだ何年も経たない県道は、自転車で遊ぶには最高の場所だった。
    よくこの県道で、銀玉鉄砲を撃ちあいながら走り回ったよね。そんなある日道の真ん中に悪名高き、銀色のセンターライン代わりの球体が埋設されたのでした。これは乗り上げると物凄く滑る。
    後ろを向いて、銀玉鉄砲で弟のTに狙いを付けたその時。。。
    惑星御橋は急激に傾いた。
    そう、後ろを向いたときにハンドルがぶれて銀色の球体に、乗り上げてしまったのです。
    気がつくと右足から大出血(@_@;) や、やばい!
    あのころの自転車にはバックミラーが付いてて、右側のフォークに付けるのが流行ってて、それが割れて足にたくさん刺さってしまったのだ。
    転んだ前の家のおばさんが、近くの松瀬医院までおぶってくれました。感謝です。最近お見かけしないけどお元気でしょうか?
    他にも潜竜坂を何キロで下れるかとかやったなー。

    子供の頃はあの炭坑町のエリアが物凄く広くて、全部を探検できたのは、炭住の数もかなり減ってからかな~。
    ブロックごとに数段の階段で仕切られてて、御橋公園をまたいでさらに下がって、M薬局の近くのスーパーみたいのがあったところから、また下がるんだよね。映画館や共同浴場は御橋グランドと県道の間くらいにあったのかな?記憶がはっきりしないな。。。
    炭住が取り壊されてからもしばらくは、探検して回ったけど、いつのまにか金網でかこまれて、いつしか梅林に代わってしまった。
    いまでもときどき取り壊された炭住の中に残ったあの階段に立って樋口方面をぼーっと見ている夢を見るよ。
    いつかnさんが言ってた御橋地区のジオラマ見てみたいなぁ・・・(>_<)
    公園での三角ベースソフトボール覚えてるよ。
    でもそのあとの対抗試合はまったく覚えてないのはなぜ?nさん覚えてる? そうだよね。なんであんなに夢中になれたんだろう。たぶんあのころ放映されてた巨人の星の影響だったのかも(@_@;)
    練習後のベビーコーラおいしかったね。(*^_^*)
    私は32年生まれなので、チクロどころかM永ドライミルクも全開で飲んでしまいました。
    そのせいか背が伸びなかった。(--〆)
    あの御橋公園の池はね、しばらくして水がまたはられたんだよ。そこでニービー弾遊びを良くやった。今の子供はあんな危険な遊びは絶対にしないだろうね。親もさせないか?あまりにも残酷な遊びなので、ここに書くのはやめるね。でもああいう遊びの中から命の大切さとか学んだ気がする。とか書いとかないとね。(*^^)v
    そうあの頃の先輩たちはかっこよかったね。
    学生運動に走る人や、かっこいいバイクや車(このころの日本車が一番素敵)にのって走り回ったり、中学生になった私はなんとなく取り残された気がしたものでした。。。。




  • #1

    Tsuyoshi (金曜日, 12 2月 2010 13:06)

    nさん、ありがとう。今、確かに私はあの時代に存在することが、できました。あの頃、この場所にいた全ての人に読んでほしい。nさんの文章を読んでると、時分が忘れてしまった過去の純粋?だったオハシ少年に戻ることができます。いま、昼の休憩時間なので後程、ちゃんとコメントします。