農業と農的暮しの狭間で。

マレビト、Rさんの訪問がもたらしたもの。

マレビト(稀人・客人)は民族学者、折口信夫が考えた概念。ざっくり言ってしまえば、共同体の外部からやってきた旅人のことである。日常的に閉じている地域共同体に非日常の風穴をあけてくれることが多い。

 

Rさんの来訪は、まさにマレビトに相応しい印象的な風をあたりに残し、次の旅の地へ去って行かれた。

 

最初は軽い気持ちで、田圃の草取りを経験的に少しお手伝いして頂けたら良いと思っていた。が、実際に草取りされると、小さい時からお米作りのお手伝いをされ、かつ、農の専門家と言ってもいい現役時代をご経験されておられるRさんは、この草取りの全体像が既に見えていたのだろう。「これは…」と思われたのか、計五回の朝夕、田圃の草取りだけに集中された滞在だった。

 

私は、せっかくこの最果ての地においでになられたのだから、草取りは適当にやられ、あとは近郊の温泉や海でも車でご案内しようと促すのだが、とにかく田圃の草、特に稗とりを真剣に最後までやられた。

 

終いの方には、「どうしてそこまで、やられるの…?」などと尋ねる始末だ。Rさんは「私には今日、ここに来ている時しか手伝えない…これが(今年)最後かもしれないからね…」というような意味合い(言葉は正確ではないのですが)を作業しながらおっしゃられる。

 

関東圏の地主の家に生まれ、小さい頃からお手伝いされた田圃は、都市近郊だったせいか、全て様変わりし、かつての面影もないらしい。そういうRさんしか判らない思惑が、この田圃にオーバーラップするのかもしれない。

 

それと実際、今年の田圃の草は時に稗が多い。田植え以後、雨が多く、その時やるべき作業(稗を小さいうちに取ること)をやりすごしたせいが大きい。稗はすこぶるお米作りには相性が良くない。取らないと2週間後には花が咲き、放っておくと種が多数田圃に撒き散らかされ来年はもっと大変になる。稗は余計に虫がつく。

 

その、事の重大さは、ラフィキさんが来るまでは実は把握してなかったのだ。これが後になって、お米作りを巡る意見交換を夜にやった時に氏と考え方の相違を確認した切っ掛けでもあった。

 

         農業と農的暮し。

 

結論から先に言えば、お米作りは厳しい。真剣勝負、生半可な気持ちではダメである。ことをRさんは主張。  私も、確かにそうなのだと思いつつある。2年目にして少し判ってきた。その大変さが。しかし、最初からプロ見たいに出来ない。経験浅いうちから次の作業の見当はつかない。最初から厳しさだけを強調したって、今日、若い人達は殆どその現場から離れて行くだろう。「厳しいが、こういう良い点がある」というフォローが必須なのではと思う。

 

つまり、大きく言えば、Rさんは、農業を目ざす人に於いての心構えを強調。 一方私が求めているのは、(まだ、形にも出来てないのだが)「農的な暮し」だ。「農的な暮し」というのは、他に職業を持って、農ある暮しを楽しむ事、「半農半X的」な生活である。今は全く形になってないが、是が今後の理想生活スタイルと自分では思っている。非難轟々だとしても。

 

その時の農は、自分が丁寧に管理出来る面積の「小さな農」である。何故ならば、「小さな農」は手が行き届く故、幸せ感があるからだ。面積が広いと、管理も大変、やる事は多く、忙しくなり人生が荒んでくる。

 

現在残念ながら、Xが見つかってないので、農業見習い的なところだ。また、小さい農を目指したいが、若干管理出来ない面積があったりする。理想には程遠い今だ。しかし現実がそれほど確固たるものでないという考えもある。状況は変化していくのだと思う。

 

なので、Rさんが来た時に田圃の草より温泉や海のお誘いをしたが、これが本当に農業に真剣なら、ここは何より、草取りを是非手伝って!ではないかな? とRさんは主張するのだ。それはその通りだと思う。

 

しかし、私は、正直、田圃の草の現状を、その時点でそこまでは把握してなかった。また、今までの農家のプロの方が離農して行ってるという事実がある現在、生産性のみに重点を置く農業ではなく、そこに作るヒトの喜び、健康な野菜とお米を重視したものを考えたかった。なので、多少の失敗があってもいいと思っていたところがある。そこは、少し考えの違いを互いに確認した次第でありマシタ。

 

しかし、意見の違いはあっても、こんなに熱心にかつ専門的な知識を教えて頂き、お酒を飲みつつ真剣に意見を交換出来たことに深く感謝!。実際どれ程助かったか判らない。Rさん、この度はまことにありがとうございました。今後の旅の健康と安全をお祈りします。

 

今日も御訪問頂きありがとうございます。良いことがありますように!

 

 

 

 

 

 

コメント: 2
  • #2

    planetary-n (木曜日, 05 8月 2010 22:21)

    sayuさん、内容深いコメントを、まことに!ありがとうございます。

    ラフィキさんとのトークセッションは、詰まるところ、私がどうしたいのか?」を問われるセッションとなりました。どうしたいの?と言われても、道なき道を進んでいるようで…。

    しかし、つい最近、口蹄疫の宮崎県を励ます講演をしたサッカーの岡田監督が、「前に進めば道が出来る…」というような事を言っていたのが、「良い言葉だな…」と印象的でした。

    そういところが私にはあります。しかしこのような生き方はちゃんとした方から見ると危なっかしいものなのだろうと思ってもいます。おっしゃるようにお米を自給出来る実力を持つとかなり世界は違ってくるだろうと思います。まず、めざしたいところですね。

    また、最初は軽い気持ちだったが、やって行く内にだんだん意識が変化していくことも十分考えられます。私はそれでよいのでは?と思ってるところです。

    「自分を世の中にどう役立てていくのか、未だ考えを巡らす日々です」ということですね。sayuさんらしい、お考えだと思います。

    私は、この点においては、今生きている人で、役に立ってない人はいないのでは?と思う時があります。それはたとえ、凶悪な連続殺人犯だったとしてもデス。(わぁ〜、過激な発言かも!)

    理由もあるのですが、それはまた別の場所で…。そういう意味では、誰もが、既に十分役に立っている。そしてさらに「より沢山の人たちに役に立つには…?」、ということなのだとお察しします。そうありたいものですね。

  • #1

    sayu (木曜日, 05 8月 2010 21:35)

    ラフィキさんとNさん、それぞれのお考えが、それぞれに正解というか、合っている。と思いました。
    ラフィキさんは本格的に農業を体験し、知っていらっしゃる。人智を超えた自然と真剣に向き合う厳しさを知っていらっしゃる。農業を生業にしようとすれば、何よりも、田畑を最優先させる覚悟や決意というものが必要なのだと思います。
    一方、Nさんのおっしゃる農的暮らしは、農業とはちょっと違いますね。私自身半農半XのX、もしくは百一姓の一をいまだ模索しながら、農的生活を目指していますが、わたしの中での農は、生きていくのに自然に必要になってくる行為というか、食料を自力で得るための行いという感じです。他の動物が自然界から自分でエサを得ていくように。生きていく為には、衣食住とエネルギーが必要ですが、それを自然界から自力で得ようとすることは、ヒトに備わった本来の能力を目覚めさせるというか、生きているという実感を感じさせる行いだと思っています。生業は、個々の能力を他の為に生かし、社会とつながりをもつ事だと思っています。
    生業がただの現金を得るための手段と捉えられては面白くないですよね。
    私は農を生業にする覚悟は持てないので、自分を世の中にどう役立てていくのか、未だ考えを巡らす日々です。