何時までもある訳ではないと思いつつ…。

今年も餅を搗く。

101208(木) 晴れ 今日は凄く寒い。冬本番を感じる一日だった。

午後より、「餅搗き」をやる。週末に行われる地域伝統行事『御神祭り』の御神事の後には、毎年「餅ち撒き」がある。その為の準備である。

餅撒きは各戸からそれぞれ餅を持ちより、それを神社でバラまく習わしだ。

昔は勿論、石臼と杵で搗いていたが、今は「餅搗き機械」というのがあって、それで作る。たいていの当地の農家の家にはその機械がある。あるというのが凄いが、石臼で搗くのは、もう人出がないので、自然の流れで今はそうなっているようだ。

餅を作るのは大変手間ひまがかかる。まず搗く前日から予め用意したモチ米を水に浸して置く。一晩以上置いてそれから蒸し器でモチ米を蒸す。昔は、蒸篭 (せいろ)でやっていたのを子供心に覚えているが、今は鍋の蒸し器でやる。蒸したモチ米を、漏斗状の真ん中にカム(スクリュー見たいなやつ)がついた回転する餅つき器の中

 に入れ、柔らかい餅を作るのだ。

頃合いを見て取り出し(この、取り出しも技術がいる)それを、母が慣れた手つきで、親指と人指し指で輪っかを作りそこから餅をひねり出しちぎる。それを、片栗粉をまぶした手の中に入れ丸く形を整えていく。

  搗き立てのお餅は実に柔らかく温かい。いわゆる餅肌というヤツだ。今日みたいな寒い日にやると手が温まってとても気持ち良い。何時までも触っていたい気分だが、お餅は次から次にちぎられ、熱いうちに形を整えなくてはならない。かなり忙しい。スピードを要求される作業でもあ る。

私が小さい頃、私の家には祖父母を入れて8人の家族がいた。私はその一番下の末っ子であった。田植えや稲刈りの作業は勿論だが、この年末の餅搗きは、家族大勢で作業をやる非日常的な一大イベントという雰囲気があった。

 

祖父母がお餅をちぎり、小さい私や姉等がそれを丸く整えていた。というより、その温かく気持ちの良い感触を遊んでいたに過ぎないのだが…。  ちぎられたお餅の形を整えるのには数人の手があった方が効率が良い。すべからく、農家の作業というのは大家族を前提として成り立ってる事を今更ながらに感じる。

 

お餅はもともと、神棚に(蛇の形態として)捧げる以外は、ご存知の通り年末年始の保存食だった。今やコンビニはあり、スーパーも正月から営業している時代、そもそもの存在がもはや危うい。民俗学的な視点では、「ハレ」(晴れ)が日常化してしまったわけだ。もともと日常は「ケ」(褻)であったのだが。「ケ」は言わばニュートラルな状態。その反対として、「ハレ」「ケガレ」があった。

 

こういう習慣も、あと、ひと世代変わると無くなるだろう。それはいけないことなのだろうか。無くさず続けるには、相当な熱意とエネルギーが必須。熟練者と時間と空間と人数が必要。ある意味凄く贅沢な作業だ。無くさないでほしいとおっしゃるのであれば、そう思う人たちが工夫し率先して残して行ってほしい。そう思うのはイケナイことなのだろうか。そういうとりとめのない事を思いつつ、今年もその春の日だまりのような温かく柔らかいお餅の感触をひと時味わっていた。

 

 

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