自然が自分にそれを促す…?

草を払い、タケノコを倒す。

110513(金),14(土),18(水)  晴れ  この3日に渡って、家回りの道と畑の今年初めての草払い、それと、タケノコ払いをやる。今年で3年目。これらがブログに登場するのも3回目だ。3回目の今年は、同じ作業でも、それまでの2回目までとは、少し違う感覚が初めてあった。

それは、少し大げさかもしれないが、自然の方から、自分にその作業を促される感覚である。前の道端の草からは「◯◯さん(自分の名前)、そろそろ、刈らないと〜、茫々になりますよ〜良ろしんですか〜、私共、このまま伸びちゃって…」「ああ、判った判ったよ、はいはい、刈りますよ〜、明日の夕方刈ります。待っててね〜」

裏山や家道下のたけのこからも、「◯◯の旦那、い〜いのっかなぁ~、オイラこのまま伸びちゃって、ここ、竹林になっちゃいますぜ〜、ああ、もぉ〜グングン伸びちゃうもんね…」「ああ、はいはい、タケノコよ判ったよ、だからもう、伸びないでおくれ、早急に倒すからね」…そういう感じだ。 これは既に過去2年、同じ作業を同じ時期にやって来たからだとも思うし、そうでないのかもしれない。

花や野菜をじ〜〜〜と見てると、何かこう、こちら側に何らかのメッセージの気配?を感じる時がある。それは時には、「水がほしいのです」だったり、「蔓がつかまる場所ないよ〜」だったりするのだが、とにかく、それは非常にささやかな気配なのだが、見てる自分に何かを促す感覚だ。

ヴィクトール・E・フランクルは、人生と私との関係について、たとえ人生に何の期待がなくても、人生の方が私に何かの期待をつねに促しているという、人生への問いの、コペルニクス的転換を示唆したが、(『それでも人生にYESという』[春秋社] 他) 自然と自分との関係も、実はそのようなものかもしれない、と、フト、自分は思った。

 

自分が自分であるという自我の意識が生まれる以前に、人生は始まっていたのだし、自分がこの世に生まれる前から自然はそこにある。その「大いなるもの」は、実はつねに、ささやかに何かをこちら側に促し続けているのだが、それらをこちらが読み取れないだけなのかもしれない。 違うかもしれないけれど。

本日もご訪問ありがとうございます。それでも良い事がありますように!

 

 

 

コメント: 2
  • #2

    planetary-n (水曜日, 15 6月 2011 05:02)

    ウェーブさんありがとうございます。
    さすがに、この状況では、やることが多岐にわたり、常に優先順位を求められます。勢い、ブログは後まわしになっています。忘れた頃にまたUPしますので、よろしくです。

  • #1

    ウェーブ (火曜日, 14 6月 2011 21:22)

    折角生えているタケノコを掘って食べるのではなくナタで切り倒す。このこと自身がハシグチの状況をよく表していますね。それにしてもタケノコは思ったより硬く切り倒すには結構力が必要です。子供の頃だったら喜んで切ったかもしれないけど、10本も切ったらへとへとになったことがありました。これからもタケノコとの生存競争が続くことでしょう。結局人間が負けるでしょうね。米プロジェクトも今年はお休みらしいけど、まあそう焦らずにのんびり、じっくりやりましょう。時間の感覚をちょっとだけ変えてみれば、世界はまったく変貌し、どうということはないのではないでしょうか。