夏旅回想 1 宮沢賢治の彼方へ

イーハトーヴを訪ねて。

120901(土)晴れ

 

宮沢賢治のファンは世に多い。自分は宮沢賢治の熱心なファンではない。筑摩書房の新校本宮沢賢治全集(全19巻)も持ってないし、ちくま文庫の全集さえも持っていない。持ってないと熱心なファンとは言えない? たぶんね。

不世出の名作『銀河鉄道の夜』を読んだのは中学生、14才の時だったと思う。新潮文庫の青い表紙のヤツだ。最初に読んだ時は、何処の国か判らない語感の名前の不思議感と、何処か寂しいような透明感と幻想的というか冥土的銀河の広がりを、その年齢なりに感じていた。

 

日本の北方の、繊細で希有な感覚の詩人だというイメージがあり、自分が育った日本の南、九州の西果てからは、距離も遠く風土的にも今ひとつ想像し難い。そのせいもあってか、遥かな地、北の詩人と言う感じだった。

しかし、その後の人生を振り返ると宮沢賢治は、気付くといつも自分の後ろに控えめにいて、そこで静かに笑っていたような気がする。教室の後ろの窓際の席で、ぼんやりと午後の校庭を眺めてる謎の転校生のようにだ。直接は話さないのだけど、何となく気にはなる存在として…。


20代~30代の若い頃は、「雨ニモマケズ…」の宮沢賢治というより、物質の消息とでも言うべき「有機交流電燈のひとつの青い照明」の、電気的感覚に感電していた。

宮沢賢治は、日本の湿気を帯びた文壇の中では、まず、見ることはない、化学や鉱物や植物、あるいは地質学等、理科室的言語感覚に鋭かった人だ。 鉱物主義とでも言うか、硬質で澄んだ結晶的感覚の人であったと思う。その資質はドイツロマン派にむしろ近く、『青い花』のノヴァーリスや、『ファールンの鉱山』のホフマン、『水晶』のシュティフター、等と並ぶと違和感がない。そしてその地下鉱脈は、レイ・ブラッドベリの諸作品や『結晶世界』のJ・G・バラード、『夢見る宝石』のS・スタージョン、稲垣足穂諸作品、『スティル・ライフ』の池澤夏樹等とも繋がっていると…。そういった興味だった。

最近では、その諸作品を生んだ宮沢賢治の意識空間とでも言うべきものに関心がある。宮沢賢治は、ある種のシャーマン的変性意識状態に時折あったのではないかと思う。時空の感覚がたぶん通常とは違う時があったはずだ。そう思われる箇所は作品のあちこちに散見される。例えば、「正しく生きることは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて生きて行くことである」(農民芸術概論網要)等は、外宇宙が内宇宙に、マクロがミクロに折り畳まれてると言った、大乗仏教の華厳経的、あるいは、ヌーソロジー的、意識空間を想像させる。知る程に深い。

実際、この稚拙なHP「遊星測候所」と言う名前も、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』、白鳥区の「アルビレオ観測所」あたりに影響を受けている。

 


いつか、

宮沢賢治の生まれた岩手県花巻市を訪れたいとぼんやり思っていた。

そのいつかは、この夏だった。
機会は意外な流れでやって来たのだった。

 


母の初盆が無事終了した8月下旬、自分は旅に出た。長距離移動手段としては国内で最も安い「青春18切符」を使ってだ。時期的にも諸状況を考えるにこのタイミングしかなく、かなり以前から計画を進めていた。そして実行に移した。かつて居た博多を皮切りに日本を縦断し8月の終わりに東京に入った。
東京に入る前に都内に住むIさんに連絡した。Iさんは、今年の正月にネパールから新年の挨拶をこのHPに頂いた方だ。世界の子供たちに向けてのそのメッセージには、Iさんのその時は知らなかったお仕事が実は垣間見えていた。

別の用事で連絡したのだが、そのIさんから、いきなり旅に誘われた。「明日から3日間休みあります。私も18切符持ってます、◯◯さん(自分の本名)何処か一緒に行きませんか? 行き先は◯◯さんに御任せしますよ」

突然舞い込んで来た話だった。これはもう~乗るっきゃない。何も迷わず「はい!では、行き先考えま~す!」と返事。そういう訳で以前から思っていた岩手県の花巻市と、世界遺産になった平泉市にある中尊寺、そして可能であれば被災地も見れたらと東日本の旅を提案。その流れで決まった。


8月31日の朝、東京JR中央線の西荻駅のホームで待ち合わせをし、前日に打ち合わせ済の、乗り換え行程表を元にひたすら北を目指して電車を乗り換えて行く。その回数9回、約8時間の旅だ。

 

地方の平日の鈍行電車の中は、そう混んでもいなくて、とてもぜいたくな空間だ。車窓からは、殆ど初めて見る、夏の終わりの東日本の風景が延々と流れて行く。その非日常の時空間では、自ずと日常を客観視出来るような会話が出て来て、旅友Iさんとシェアして行く。時間はたっぷりあるし急ぐこともない。NGOで長年働いて来られたIさんの、世界の現場の貴重な話も伺えた。その他にも実に色んな話が出来てとても良かったと思う。夜7時過ぎに今日の投宿場所、岩手県北上市に着く。

                       
          〜 イーハトーヴ紀行


9月1日(土)岩手県北上市は快晴の空、北に来たので心なしか涼しい。駅前でレンタカーを借り、東北自動車道を午前中に南下し平泉市の世界遺産、中尊寺を参拝。その後は北上し、花巻空港インターだったかを降りて生まれて初めて宮沢賢治の生誕地へ。遠くに山々も見えるが、おおむね平野で実に広々した所だ。九州の西果て佐世保から約1800km、一般道に降りて、道路案内に「宮沢賢治記念館あと6km」という文字を見つけた時は「ああ~、とうとう来たのだ…!」と、気分が高鳴る。

            

            宮沢賢治記念館

 


宮沢賢治記念館は、花巻市の東側の小高い山(湖四王山 こしおうざん)の中腹に静かに建っていた。まわりは欅だろうか、とにかく西日本にはあまり見られない繊細な感じの木立の中、ゆるやかな坂道を登り切った先にそれはあった。正面玄関プレートにその文字を見つけた時は、14才で出逢ってから~ゆうに約40年後、ついに、北の詩人の生誕地に来ることが出来た!という思いが、さすがに込み上げて来て感無量だった。ここまで来れたご縁に感謝!Iさんに感謝!これまで死なずに生きてて良かったと思った。

宮沢賢治記念館内は撮影禁止なので画像がないのだが、この、天文学、植物学、鉱物学、地質学、農業、園芸、音楽、詩、童話、絵画、そして信仰、カレイドスコープのように多彩な光芒を放つ希有な存在を、記念館として編集し展示するには至難の技だろうと余計な心配をしてしまった。

 

〈科学〉〈信仰〉〈芸術〉〈農業〉等、8つのキーワードにて、その業績を紹介し、視覚的にもこの不思議な存在の実像に迫らんとしていた。休憩室の大きな窓からは、木立ちの向こうに花巻市街がゆったりと南北に広がっていて美しい。

また同敷地内には、童話『注文の多い料理店』に出て来る「山猫軒」というレストラン、少し戻った所には、宮沢賢治の研究施設「イーハトーヴ館」があった。山猫軒では岩手の郷土料理ひっつみと、(すいとんのようなもの)を食した。素朴で美味しい。またイーハトーヴ館では、賢治の弟、宮沢清六さんの(この後訪ねる)北上川、「イギリス海岸」の写真展が開かれていた。宮沢賢治関連書籍やグッズを売る「猫の事務所」では、ここでしか入手出来ない賢治関連目録他を入手した。

 

 

               羅須地人協会

 

 

羅須地人協会とは、宮溴賢治が、独居自炊しながら農業や芸術の講義をやったり人々を集めて楽器の演奏をやったりした家である。「下ノ 畑ニ 居リマス 賢治」という黒板文字で有名な木造の建物だ。今風に言えば、住居兼フリースペースといったところか。不思議な経緯で現在、花巻農業高校の敷地内に在る。

2階建ての和洋折衷の素敵な家で、その当時としては、かなりモダーンな作りではなかったかと思う。何処か画家のアトリエっぽい。この建物は実際に入ることが出来る。賢治が生徒に与えた自分の黒マントも飾ってあり、賢治が講義したりセロの演奏をしたであろう、その木造のフローリング空間の丸イスに座っていると、時空を越えて今にも宮沢賢治がその扉の向こうから現れて来そうだ。

「…どちらからおいでデスカ?」

「はい、九州の西果てから、あなたに会いに来ました!

 40年かかりました!」

外はこれ以上はない9月の透明な青空が広がっていた。

                     
        「イギリス海岸」と 、ある発見!


かっこ良く言えば、自分の住む地域の心象風景として「惑星ハシグチ(プラネット・ハシグチ)」という造語を考案した時、参考にしたのが、岩手県を「イーハトーヴ」と命名したり、北上川の河畔の一部を「イギリス海岸」と命名する宮沢賢治の非凡なネーミングセンスだ。しかし、実際の北上川がどういうものなのか?「イギリス海岸」は何処にあるのか? そういうのにはまったく無知であった。

実際の花巻市に流れる北上川の河畔、「イギリス海岸」と呼ばれる場所に佇んで見て、自分は、名作『銀河鉄道の夜』の謎にせまる大発見をした! これは現地に来て見ないと判らないことだった。もしかして、この地に住んでる人たちには自明のことかもしれないが、この地を知らず、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』読んだ人はまったくこのことに気付かないと思う。

少なくとも自分の中では、まさに天地がひっくり返る程の大発見だった。「ああ~、実際、この地に来て良かった! 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、まさに、この地でなくては生まれなかった作品だったのだ!ここだから生まれたのだ!」この地でしか生まれなかった理由がここにはある。『銀河鉄道の夜』は、他の日本の河川、長野の信濃川でも東京の多摩川でも、或は九州の筑後川河畔でも生まれなかったと思う。北上川河畔でしか、それはたぶん生まれなかったハズだ。

 

 

          私説「銀河鉄道の夜」誕生の謎

 

 

それは何故か? もし手元にあるのなら、なるべく大きな日本地図を開いてほしい。そして、岩手県から宮城県まで流れている、北上川の川の流れる方向に注目してほしい。北上川は日本で5番目に長い川(249km)で、因みに 1位、信濃川 (367km) 2位、利根川(372km) 3位、石狩川(298km) 4位、天塩川(286km)である。

この、日本の大きい川の中で、その全体がほぼ真北から真南に流れている川は、唯一、北上川だけである。北上川だけが両岸の平野の中、岩手県から宮城県の海岸あたりまで、ほぼまっすぐに南下している。特に花巻市の、賢治がイギリス海岸と名付けたあたりからは、もう殆ど真っ直ぐ真南に向かって流れている。ここに注目してほしい。これは大変重要なことだ。

さて、今度は天空に目を向けてみる。真夏の夜の満天の星空を調べて見てほしい。手元に星座早見版があればそれで。なければウェブで。8月は15日頃、時刻は夜半20時頃の夏空だ。その日でなくても良いのだが、ともかく夜空の天頂、真上に白鳥座が来るような時期だ。そして、その時の天の川の方向を是非、確認して欲しい。どうだろう? ほぼ、北から南に流れてはいないだろうか? これが夜21時頃になるとほぼ真北から真南に流れる。

天体の動きは宮沢賢治が生きていた時代、約100年前と殆ど変わらない。ということは、宮沢賢治が育った花巻では、毎夏ごと、天気が良ければ、広々とした視界で空が見える北上川の真上に、北上川とまるで鏡映しのように天の川が見てとれる、と言うわけだ。(今でもそうだと思う)天の川と地の川(北上川)、この、天と地の、見事な相似の対応が、かの物語の原型となる、詩人の宇宙的直感を呼んだのだと自分は思う。

北上川は、実際行ってみて判るが、起伏の激しい渓流ではなく、比較的浅く川幅が広くて、南北に伸びる広い平野の中心に北から南へ流れている。実に穏やかな美しい川だ。

この、北から南へ流れてるというのにも注目だ。何故なら、銀河鉄道は、北十字である北の白鳥座から南へ、蠍座を抜けてケンタウロス座を越え、日本本土からは見えない南十字星へと向かうからだ。白鳥座の嘴(これがアルビレオという星)が向いてる方向が南で、その白鳥座が含まれる天の川と、鏡のように対応する地の川、北上川も、北から南へと流れている。

 

これが逆方向の流れだったり、川が東西に伸びていたら、イメージが対応せず、不朽の名作「銀河鉄道の夜」は生まれなかったかもしれない。天と地の天然の相似象のあるところに、希有な詩人が生まれ、その宇宙的とも言える閃きがあって初めてこの作品は生まれた。幾つもの奇跡が重なりあってこの童話が生まれたことが、自分ははっきりと認識出来た。

9月の初めの花巻は、未だ夏の余韻があったが、そには西日本のカオス的暑さとは違う、コスモス(宇宙)的清々しさがあった。永年憧れていたこの地に足を運べた不思議な経緯に深く感謝しつつ、詩人の生誕地を後にした。カムパネルラみたいにこの地に導いて頂いたIさんに、心から感謝します。ありがとうございました!

 

 

        スライドショー:イーハトーブ紀行

 

           BGM:『星めぐりの歌』/MIGA(作詞作曲/宮沢賢治)

                 (スライドショーにシンクロさせてお楽しみ下さい)


なつかしき

地球はいづこ

いまははや

ふせど仰げどありかもわからず  

 

       『短歌(歌稿)』            宮沢賢治

 

 

 

 

 

本日もご訪問有り難うございます。それでも良い事がありますように。

 

(500MB/481MB)

 

 

 

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