ヒッピーカルチャーとの出会い 2

カウンターカルチャーは雑誌にも表出した。(1970年代後半の月刊『宝島』筆者蔵)
カウンターカルチャーは雑誌にも表出した。(1970年代後半の月刊『宝島』筆者蔵)

       

       1977 東京 国分寺「ほら貝」


東京都国分寺市にある、ヒッピーカルチャーが創った日本初のロック喫茶「ほら貝」に行ったのは、東京に来て暫くしてからだったと思う。

1977年の秋〜冬くらいか? 国分寺の隣、国立(くにたち)に住んでいた自分としては、国分寺の街は近いし、知ってる人は知ってる通り、何よりそのラブ&ピースな街の気配は、カウンターカルチャー好きの自分には、十分魅力的だった。たぶんその雰囲気は、今でも伝統的に残ってるのでは?と思う。アパートのある国立の街も、ご存知の方もおられるかと思いマスガ、こんな街が日本にあるのか?とさえ思う程の素敵過ぎる街だ。緑多いそのハイソな文化学園都市は、西果ての過疎の田舎から来た自分には、大カルチャー・ショックだった!

この年、自分は浪人で国立の大学通り(ご存知の方も多いと思いマスが、国立市は街の中央に名門校、一橋大学がある)側のアパートから立川の予備校に通っていた。予備校と言っても美術系のそれなので、「美術研究所」と呼ばれることが多い。そこはその当時、都内で一番安い授業料だったのだ。(今はモウケたのかビルが建ってる!)一浪でダメだったら、田舎に戻って農家の跡継ぎをやらなくてはいけない。親との約束だった。農業はその当時、全くダレモ見向きもしない職業。気分は背水の陣だった! 

研究所には、北は北海道、南は鹿児島、全国からそこそこ絵に自信のあるやつらが集まっていた。彼等は信じられない程イイヤツばかりだったが、ここは心を鬼にして、合格を最優先に交遊していた。自分の場合、2浪とかは全く考えられなかったからだ。1年後、お陰さまでT美大もM美大も合格した。合格したのでもう時効だと思うが、そういう中でも時々研究所を抜け出して、東京の街を探検していた。時代は未だ『書を捨てよ街に出よ!』だったのだ。

20代前後の頃は、アートも文学も演劇も映画も面白いのだが、直接的に体に響いて来るのはやはり音楽、当時は音楽なしではいられない日々だった。砂に沁み入る水のように、自分はその時代の音楽を吸収していたと思う。そのあたりは語り始めると朝まで続きそうなので今回は軽く触れるに留めマス。

既に、国立にあったロック喫茶は全部行っていた。旭通りにあった「アップル」、その2階にあるジャズ喫茶「喇叭(らっぱ)」、国立駅北口側にあった「バルディ」、この年の秋、国立駅近くに出来たブランコ通りの「マギー・メイ」、富士見通り、西友の少し先、通りから一つ入った細いビルの2Fにあった「ペンギン・カフェ」(ここは’79年頃〜)、どの店でも、自分の知らない音楽との出会いが、何より新鮮だった。

国分寺は、北口の西国分寺寄り、本町あたりの少し谷みたいなってるエリアに、木造2階立て2Fに「セムイ」、北口を北の方に少し坂を登った道沿い東側に「伽羅(きゃら)」と言うロック喫茶があった。それぞれの店がどういう特徴があり、どういう音楽を掛けていたか、だいたい今でも覚えているが、これも書き出すと長くなりそうなので、別の機会に。


日本で最初のロック喫茶「ほら貝」は、「セムイ」より駅に近い、国分寺駅北口を出て西武多摩湖線方面の、飲み屋等が集まってる、どちらかというと猥雑なエリアにあった。手作りの木造平屋だったと思う入口のドアを開けると、正面よりやや左向こうにカウンター、手前にテーブルと椅子がセットされていた。その時はカウンターの右側に座り、ベジタブルカレー&タンポポコーヒーを頼んだ記憶がある。

 

そもそもどうやって「ほら貝」を知ったのだろう?今となっては定かではないのだが、当時読んでいた、月刊「宝島」あたりからではないかと思う。A5判のコンパクトサイズのこの雑誌は、植草甚一編集の流れを継承していて、その当時唯一のカウンター・カルチャーの月刊誌ではなかったか?と思う。特に’70年代後半の月刊『宝島』は、音楽や文学の他の紹介の他に、新しい都市ライフスタイル、ヒッピー精神文化、旅のしかた等の情報を提供していた。今思えばかなりマニアックな内容だ。毎月ではないが、特集が面白そうな時には買っていたのだ。

 

「ほら貝」は1968年設立なので、今から45年以上も前に、いち早く自然食、有機農の料理を提供していた。あまりに先駆的すぎて、当時の殆どの一般の人は理解出来なかったかと思う。

季節は晩秋、東京の夕暮れは早いが、時刻は未だ夕方3〜4時頃だったと思う。カウンター内でお湯を湧かしてる湯気が上がり、それがほんわかと心地良かったのを覚えている。カウンター内の人は、昼間担当の方という感じで、Gパンにワークシャツ、頭にバンダナをし、すごく料理に専念してる。とても料理が好きな人なのだなと思った。因みにカレーは絶品だった。

 

BJH 「 Once Again」(1971)
BJH 「 Once Again」(1971)


店内に流れてる音楽は、カウンター後方、レコードびっしりの棚の壁に、レコードジャケットが無造作に置いてある。「バークレー・ジェームス・ ハーヴェスト」の、蝶のイラストのヤツだ。国立や国分寺の、他のロック喫茶にも行ったが、「バークレー・ジェームス・ハーヴェスト 」掛かっているのは初めて。(なので今でも覚えているのだろう)

 

英国のプログレッシヴ・バンドで、オーケストラを用いたサイケデリック・シンフォニック・ ロックとでもいうような感じの音。ムーディーブルースにやや似てなくもない。その音楽を聞きながら、店内の隅にあった部族新聞を自分は読んだりしていた。

なにせ、携帯もデジカメも、スマホもタブレットもない、ウォークマンさえも未だ登場してない時代だ。目と耳でしっかり記憶するしかない。好きな音楽はその レコードジャケットデザインが記憶の拠り所だった。

 

部族新聞は大判で迫力があるのだが、1977年当時は、コンビニは未だ世に登場してなく、コピー機も一 般には身近ではない。画像印刷撮り込み技術が未だ難しかった時代なので、長野富士高原や諏訪野瀬のコミューンの現場写真(だったと思う)等は、ハーフトーンが飛んでいて細部が良く判明せず、黒ベタ一色の画像に見えてしまう。



 

それが幸か不幸か、その部族新聞の画像からは、残念ながら自分には楽しさがあまり伝わらず、むしろ修行僧めいた過酷な現場の気配を自分は感じたものだった。「なんだかスゴい場所で、スゴく大変そうだなぁ」と…。

「ほら貝」に行ったのは、この時代、これが最初で最後。ヒッピー・カルチャーに憧れていたにも関わらず、そこに飛び込むでもなく、何となく気の会う友人の友人といった感じの、友好的な関係を持ちつつも一定の距離を儲けていた。
 

時は流れ2008年夏、東京を訪れる機会があり、その時、国分寺の「ほら貝」を思い出した。ネットで調べたら、場所を駅北口から東側の通りのビルの2Fに 移して健在だった。場所まで見つけたのだが、夜からの営業の様子。お酒はあまり強くないので行かずじまい。その年「ほら貝」は、この訪れた8月末、国分寺での40年の歴史にピリオドを打ち閉店した。

 

今となっては、神話化されそうな伝説のロック喫茶になってしまったが、少なくとも、「ほら貝」が存在していた時代に店を訪れ、その時代の気配を十分体感出来たことは良かったと思う。自分はこの世にあらゆることを経験しに来ている。(つづく)

 

 

  image BGM  The Beatles /「Tomorrow Never Knows」(1966)

ヒッピーカルチャーは、ビートルズを抜きにしては語れない。「リボルバー」あたりから見えて来たサイケデリックなサウンドは、インドの導師(グル)マハリシTM瞑想の影響後、内的に進化して行ったように思う。マントラを贈与されるティーマー(TM瞑想者)は自分の友人にもいて身近な存在だった。

 

 

 

本日のご訪問ありがとうございます。良い事がありますように!

 

 

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コメント: 2
  • #2

    ストレンジ (木曜日, 08 12月 2016 21:35)

    「67歳の」さま、
    量子の海の最果てにあると思う、拙ブログを訪れて頂き、まことに有り難うございます。感謝致します。

    現在67歳でいらっしゃって、19歳の頃となりますと、1968年ですよね? ということは、19歳という、人生で1番元気な頃に、出来たばかりの『ほら貝』と出会われておられる…。それも毎夜通詰めて…!

    はるか下の世代であります、私などが申し上げるのも失礼かと存じますが、これはもう〜その後のご自身の人生に、相当御影響がおありになったのでは?と、拝察申し上げます。

    私は1959年生まれですが、その私が、かようなブログを書く意味があるとすれば、私の年代までくらいが、ヒッピーをリアルタイムで知る世代の最後か?という認識があるからです。

    ’60年代生まれになって来ると、もう上の世代との繋がりは薄くなり、ヒッピージュニアの世代を待つまでは、しばらくは歴史の中に埋もれていきますね。

    『ほら貝』や、そしてヒッピーカルチャーとは、何だったのか? まさにリアルタイムで体験された「67歳の」さんには、現在のお年になられても、さまざまな思いが、いまだに強烈におありの事と拝察致します。無理にとは申しませんが、もし可能でしたら、その、極一端でも、お話を伺えると、大変嬉しく思います。
    この度は有り難うございます。(ストレンジ・拝)





  • #1

    67歳の (木曜日, 08 12月 2016 01:45)

    19の頃、毎夜通い詰めたほら貝、なつかしくて泣きそう!!