ヒッピーカルチャーとの出会い 2

カウンターカルチャーは雑誌にも表出した。(1970年代後半の月刊『宝島』筆者蔵)
カウンターカルチャーは雑誌にも表出した。(1970年代後半の月刊『宝島』筆者蔵)

       

       1977 東京 国分寺「ほら貝」


東京都国分寺市にある、ヒッピーカルチャーが創った日本初のロック喫茶「ほら貝」に行ったのは、東京に来て暫くしてからだったと思う。

1977年の秋〜冬くらいか? 国分寺の隣、国立(くにたち)に住んでいた自分としては、国分寺の街は近いし、知ってる人は知ってる通り、何よりそのラブ&ピースな街の気配は、カウンターカルチャー好きの自分には、十分魅力的だった。たぶんその雰囲気は、今でも伝統的に残ってるのでは?と思う。アパートのある国立の街も、ご存知の方もおられるかと思いマスガ、こんな街が日本にあるのか?とさえ思う程の素敵過ぎる街だ。緑多いそのハイソな文化学園都市は、西果ての過疎の田舎から来た自分には、大カルチャー・ショックだった!

この年、自分は浪人で国立の大学通り(ご存知の方も多いと思いマスが、国立市は街の中央に名門校、一橋大学がある)側のアパートから立川の予備校に通っていた。予備校と言っても美術系のそれなので、「美術研究所」と呼ばれることが多い。そこはその当時、都内で一番安い授業料だったのだ。(今はモウケたのかビルが建ってる!)一浪でダメだったら、田舎に戻って農家の跡継ぎをやらなくてはいけない。親との約束だった。農業はその当時、全くダレモ見向きもしない職業。気分は背水の陣だった! 

研究所には、北は北海道、南は鹿児島、全国からそこそこ絵に自信のあるやつらが集まっていた。彼等は信じられない程イイヤツばかりだったが、ここは心を鬼にして、合格を最優先に交遊していた。自分の場合、2浪とかは全く考えられなかったからだ。1年後、お陰さまでT美大もM美大も合格した。合格したのでもう時効だと思うが、そういう中でも時々研究所を抜け出して、東京の街を探検していた。時代は未だ『書を捨てよ街に出よ!』だったのだ。

20代前後の頃は、アートも文学も演劇も映画も面白いのだが、直接的に体に響いて来るのはやはり音楽、当時は音楽なしではいられない日々だった。砂に沁み入る水のように、自分はその時代の音楽を吸収していたと思う。そのあたりは語り始めると朝まで続きそうなので今回は軽く触れるに留めマス。

既に、国立にあったロック喫茶は全部行っていた。旭通りにあった「アップル」、その2階にあるジャズ喫茶「喇叭(らっぱ)」、国立駅北口側にあった「バルディ」、この年の秋、国立駅近くに出来たブランコ通りの「マギー・メイ」、富士見通り、西友の少し先、通りから一つ入った細いビルの2Fにあった「ペンギン・カフェ」(ここは’79年頃〜)、どの店でも、自分の知らない音楽との出会いが、何より新鮮だった。

国分寺は、北口の西国分寺寄り、本町あたりの少し谷みたいなってるエリアに、木造2階立て2Fに「セムイ」、北口を北の方に少し坂を登った道沿い東側に「伽羅(きゃら)」と言うロック喫茶があった。それぞれの店がどういう特徴があり、どういう音楽を掛けていたか、だいたい今でも覚えているが、これも書き出すと長くなりそうなので、別の機会に。


日本で最初のロック喫茶「ほら貝」は、「セムイ」より駅に近い、国分寺駅北口を出て西武多摩湖線方面の、飲み屋等が集まってる、どちらかというと猥雑なエリアにあった。手作りの木造平屋だったと思う入口のドアを開けると、正面よりやや左向こうにカウンター、手前にテーブルと椅子がセットされていた。その時はカウンターの右側に座り、ベジタブルカレー&タンポポコーヒーを頼んだ記憶がある。

 

そもそもどうやって「ほら貝」を知ったのだろう?今となっては定かではないのだが、当時読んでいた、月刊「宝島」あたりからではないかと思う。A5判のコンパクトサイズのこの雑誌は、植草甚一編集の流れを継承していて、その当時唯一のカウンター・カルチャーの月刊誌ではなかったか?と思う。特に’70年代後半の月刊『宝島』は、音楽や文学の他の紹介の他に、新しい都市ライフスタイル、ヒッピー精神文化、旅のしかた等の情報を提供していた。今思えばかなりマニアックな内容だ。毎月ではないが、特集が面白そうな時には買っていたのだ。

 

「ほら貝」は1968年設立なので、今から45年以上も前に、いち早く自然食、有機農の料理を提供していた。あまりに先駆的すぎて、当時の殆どの一般の人は理解出来なかったかと思う。

季節は晩秋、東京の夕暮れは早いが、時刻は未だ夕方3〜4時頃だったと思う。カウンター内でお湯を湧かしてる湯気が上がり、それがほんわかと心地良かったのを覚えている。カウンター内の人は、昼間担当の方という感じで、Gパンにワークシャツ、頭にバンダナをし、すごく料理に専念してる。とても料理が好きな人なのだなと思った。因みにカレーは絶品だった。

 

BJH 「 Once Again」(1971)
BJH 「 Once Again」(1971)


店内に流れてる音楽は、カウンター後方、レコードびっしりの棚の壁に、レコードジャケットが無造作に置いてある。「バークレー・ジェームス・ ハーヴェスト」の、蝶のイラストのヤツだ。国立や国分寺の、他のロック喫茶にも行ったが、「バークレー・ジェームス・ハーヴェスト 」名前だけは知っていたが、初めて聴いた。(なので今でも覚えているのだろう)

 

英国のプログレッシヴ・バンドで、オーケストラを用いたサイケデリック・シンフォニック・ ロックとでもいうような感じの音。ムーディーブルースにやや似てなくもない。その音楽を聞きながら、店内の隅にあった部族新聞を自分は読んだりしていた。

なにせ、携帯もデジカメも、スマホもタブレットもない、ウォークマンさえも未だ登場してない時代だ。目と耳でしっかり記憶するしかない。好きな音楽は、そのレコードジャケットデザインが記憶の拠り所だった。

 

部族新聞は大判で迫力があるのだが、1977年当時は、コンビニは未だ世に登場してなく、コピー機も一般には身近ではない。画像印刷撮り込み技術が未だ難しかった時代なので、長野富士高原や諏訪野瀬のコミューンの現場写真(だったと思う)等は、ハーフトーンが飛んでいて細部が良く判明せず、黒ベタ一色の画像に見えてしまう。



 

それが幸か不幸か、その部族新聞の画像からは、残念ながら自分には楽しさがあまり伝わらず、むしろ修行僧めいた過酷な現場の気配を自分は感じたものだった。「なんだかスゴい場所で、スゴく大変そうだなぁ」と…。



 

「ほら貝」に行ったのは、この時代のこれが最初で最後。

ヒッピー・カルチャーに憧れていたにも関わらず、そこに飛び込むでもなく、何となく気の合う友人の友人といった感じの、友好的な関係を持ちつつも一定の距離を儲けていた...。
 



時は流れ2008年夏、東京を訪れる機会があり、その時、国分寺の「ほら貝」を思い出した。ネットで調べたら、場所を駅北口から東側の通りのビルの2Fに 移して健在だった。場所まで見つけたのだが、夜からの営業の様子。お酒はあまり強くないので行かずじまい。その年「ほら貝」は、この訪れた8月末、国分寺での40年の歴史にピリオドを打ち閉店した。

 

今となっては、神話化されそうな伝説のロック喫茶になってしまったが、少なくとも、「ほら貝」が存在していた時代に店を訪れ、その時代の気配を体感出来たことは良かったと思う。自分はこの世にあらゆることを経験しに来ている。(つづく)

 

 

  image BGM  The Beatles /「Tomorrow Never Knows」(1966)

ヒッピーカルチャーは、ビートルズを抜きにしては語れない。「リボルバー」あたりから見えて来たサイケデリックなサウンドは、インドの導師(グル)マハリシTM瞑想の影響後、内的に進化して行ったように思う。マントラを贈与されるティーマー(TM瞑想者)は自分の友人にもいて身近な存在だった。

 

 

 

本日のご訪問ありがとうございます。良い事がありますように!

 

 

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コメント: 26
  • #26

    渡辺純子 (土曜日, 11 12月 2021 12:05)

    ストレンジ・Nさま
    CO COさま
    お返事頂きとても感激しております。
    ありがとうございます�
    このとおりアナログ派の私としては
    簡単な操作?もよくわからずまた同じやり方で
    投稿させて戴きました。
    なので管理される側の方は色々大変なのに、申し訳ないです。
    CO COさん、輪島のだんごやさんはそこが発祥でしたか。だいぶあと所沢にありましたね。
    国分寺に小さい西友もありましたね。
    今度機会がありましたら皆さんで行きたいですね
    私はたぶんストレンジさまとだいたい年齢が一緒ですかね。
    年越して1月には63になります。
    先日お話ししたように40近くの子供を二人かかえています。
    ずっと愚痴ばかりの人生でしたが身体の為にも
    後の人生楽しみ見つけて生きて行かないとです。
    ストレンジ様のように生かされているだけでも感謝とご立派です。
    見習わないとです。
    すみません、長々と書いてしまいました。
    どうぞ皆さまお身体に気をつけられて、
    来年も福が訪れますように、お祈り申し上げます^o^

  • #25

    ストレンジ・N (水曜日, 08 12月 2021 23:25)

    渡辺純子さま、

    約一年振りに再びメッセージいただき誠にありがとうございます。
    コロナの中お元気でいらしゃったようで、全くなりよりです。

    こちらこそご無沙汰しております。
    私の方もお陰様でなんとか生かされていました。
    還暦も過ぎた「おひとりさま」ですので、
    日々凹むことも多いのデスガ、
    それでも今日も生かされていたことに感謝!
    そうやって進んで行ってるつもりです。

    期せずして、ほぼ同じ時間帯に、
    同じようなメッセージを、cocoさんから頂きました。
    昨晩はきっと、そういうシンクロニシティーな、
    星回りだったのかも?ですね(笑)。

    渡辺さま、cocoさま、

    当測候所は、ご覧のとおり、ネットの海の最果てにある辺境の地ではありますが、それでも不特定多数の方の目に触れる場所ですね。ですので、内容等もそれなりの最低限の配慮が必要になります、が、それでもよろしければ、管理者である私などにお気兼ねなく、ご自由にお使い下さいませ。

    当管理者、私ストレンジ宛に、今後もし、何かご要望や問い合わせ等があるようでしたら、その時は、大変お手数ですが、当HPの上部にある、カテゴリー欄、その中の最後にある、「お便り」から、ご自身の都合良いメルアドで、メッセージいただければ、誠意対応する所存です。一応、知っておかれて下さい。

    渡辺さま、cocoさまをはじめ、それから、少し前にメッセージ頂いた、「ちっちゃい頃〜さん」も、その後、お元気でいらしゃいますでしょうか? その他、フリス バアバットさん、案山子さん、「67歳の」(2016年当時)方...。

    その他、通りすがりでお立ち寄り頂いた、サイレントな、あなたさまも、この、567オミクロンウィンターを、それでもどうか楽しくお過ごし下さいませ。私ストレンジ・Nもそうします。

  • #24

    coco (火曜日, 07 12月 2021 23:37)

    渡辺純子さま
    ほぼ同時に投稿していました。
    セムイは、西武多摩湖線に近かったと思います!
    だんごの輪島も近かったです。
    マスターのますださんは、その隣りの博多ラーメンのお店もやっておられました。
    急な閉店で、次にどこへ行き何をされるかは話されませんでした。

  • #23

    coco (火曜日, 07 12月 2021 23:28)

    ストレンジ・N 様
    返信ありがとうございます!
    閉鎖を考えておられましたか。
    国分寺、セムイ、たまに思い出して懐かしく、何かその手がかりを探したりしていてここに行きつきました。

    ヒッピー世代ではないのですが、1990年ごろに、ヒッピーを懐かしむイベント?みたいなものが北口の公園か何かで開かれて行きました。
    自然食とかが売られていたと思います。

    そういえば、コロナ直前に25年ぶりに国分寺に行き、歩きました。
    ずいぶんと変わってしまいましたが、古レコードを珍し屋で買って帰りました。

  • #22

    渡辺純子 (火曜日, 07 12月 2021 23:21)

    ストレンジ・Nさま
    ご無沙汰しております、お元気ですか?
    久々にブログをみたらCO COさんとおっしゃる
    やはり昔の国分寺を知る方のメッセージが入っていたのでなんか嬉しくなり、私も久々に投稿させて戴きました。
    西武多摩湖線に近いお店がセムイさんでしたでしょうか?
    勘違いしていたらごめんなさい。
    ほとんどは伽羅通いでしたが時々その線路沿いの
    お店で待ち合わせしたことがありました。
    だいぷ感染者も減ってきましたがまたオミクロンが心配ですね。
    でもちょっと国分寺散策してみようかななんて
    また機会がありましたら、、
    皆様、お元気で楽しい日々が送れますように^o^
    ストレンジ・Nさん、いつもありがとうございます�

  • #21

    ストレンジ・N (月曜日, 06 12月 2021 00:30)

    cocoさま、ご訪問有り難うございます。近年は、ほとんど新記事をアップしてない、今や開設冬眠状態のブログです。無料分の容量もほぼ満杯になっており、開設当初のコンセプトも、10年以上経つとその後考えも変化。ひとまず、ひっそり閉鎖しようかな? ...ナンテ思ってる時にかぎって、不思議と、どこからともなくメッセージが飛来して来ます(笑)。「あらら、じゃ、もう少し、このまんまにしておこうか...。」などと、閉鎖の気持ちが揺らぎます。ご覧のような内容ですが、何かお役に立てば幸いです。ストレンジ拝

  • #20

    coco (日曜日, 05 12月 2021 23:53)

    こちらの主様、昔の国分寺を知る皆様、こんにちは。
    1983年ごろから10年間、青春を国分寺で過ごしました。ちょうどセムイの最後はお店で見届けて、店の調度品などいただいて帰ったのを覚えています。お店の方達とは仲良くしていただき、最期までいて、スタッフと居酒屋にみんなで飲みに行った事も懐かしいです。
    ほら貝もなかなか強烈なマスターがいらっしゃり、「インドの北のカレーと南のカレーの違いわかる?」といきなり聞かれたりしたのも良い思い出。
    セムイのマスターのますださん、今はどうされているのでしょうか?
    ご存じの方いらっしゃいますか?

  • #19

    渡辺純子 (水曜日, 23 12月 2020 08:11)

    ストレンジN様
    ご返事ありがとうございます。
    こちらこそお忙しいときにかえって申し訳ありませんでした。
    良いご提案も嬉しいです。
    SNSも覚えて収束後に出来たらいいです。
    皆様のご健康祈るばかりです。
    来年も良い年をお迎えください。
    ありがとうございました�

  • #18

    ストレンジ・N (火曜日, 22 12月 2020 23:07)

    渡辺純子さま。大変ごめんなさい!

    実は、私の手違いで、別の方に、間違ってメール送ってしました!
    その方から、「御間違えではないですか?」と、わざわざメールのご返事頂いて、初めて気づきました。 

    なぜ、間違えたかと申しますと、ほぼ同じ時期に、このシリーズのブログにメッセージを頂いていたからです。

    大変失礼なことを、その方にも、渡辺さんにもしてしまいました。
    すみません。今一人で勝手に取り乱しています。

    こちらはなんとか生きております。が、コロナがこちらでも
    増えて来て、緊張してるところもあります。はやく収束して、
    「国分寺懐かしツアー」やれると良いですね。

    今の時代は、SNSもありますし、呼びかけることも可能?なのではと思いますよ。案外うまく行くのかも知れません。そういうのも考えつつコロナ後を計画されるのも、ひとつの楽しみかも知れませんね
    ともあれ今は、十分気をつけられて、お過ごしください。
    この度は有り難うございました。

    ストレンジ・拝





  • #17

    渡辺純子 (日曜日, 20 12月 2020 00:05)

    ストレンジNさま
    ご無沙汰しています。
    渡辺純子です。
    早い収束を願っていましたがまた暴れまわって困ったものですね。
    いかがお過ごしでしたか?
    もう一度国分寺を昔を振り返りながら散策してみたいです。
    ストレンジNさんにもお目にかかりたいなぁ
    昔を知っている人達と国分寺ツアーしたいなぁ
    なんて
    何しろアナログおばさんなので伝わってくれていたら嬉しいです。
    ボヤキだと思ってお許し下さい(*゚▽゚*)
    元気でいてください�

  • #16

    ストレンジ様 (土曜日, 09 5月 2020 18:53)

    先日何気にコメント自由に書かせていただきました渡辺です。
    ごめんなさい、アナログおばさんでやっとラインができるくらいで、いちかばちかでやってみました。
    まさか届いていて、しかも長文でご返事頂いて
    感謝です。
    ありがとうございます�
    ここに返信入れて大丈夫でしたか?
    私もほら貝、セムイ、ラビさんの店色々連れていってもらいました。
    ほんとにほんとに楽しい時期を思い出させてもらってありがとうございます。
    鈴木さんという方、その方ではないかもですが
    絵を描いてらっしゃって、私を一度モデルで描きたいとおっしゃって、わたしみたいなオデブさん
    いやですよ。といったら、いやどちらかというと
    ふくよかな方が、、と言われ、なるほどと苦笑いしました。よく伽羅にもいらしていましたが??
    だいたい絵画の女性はでっぷりですよね。
    私は23で結婚して、24.25で子供できましたが、
    40くらいのときシングルマザーになり、まだ子供達も一緒です。
    家は田無で実家の近くに住みましたが、両親も昨年から今年にかけて二人とも旅たちました。
    今はまだまだ60くらいじゃ、、と思っていましたが、最近コロナで友達とも会えなくて、このまま、、とかネガティヴになってしまいます。
    ちなみに渡辺は旧姓で、離婚しても子供がいるので嫁いだ先のみよじを使ってますが、当時のことを思い出し旧姓で載せました。
    ストレンジ様も、身体に気を付けて
    尚一層ご活躍お祈り申し上げます。
    �‍♀️�

  • #15

    ストレンジ・N (水曜日, 06 5月 2020 14:29)


    渡辺純子さま

    ご返事が大変遅れましたが、
    この度は拙ブログにコメント頂き、まことにありがとうございました!

    国分寺の「伽羅」ですね。

    ブログにも書きましたように、北口駅前から緩やかな上り坂になった途中の道、東側角にあったと記憶しています。(なにせ40年以上前のことですので、記憶が曖昧で間違ってるかもです。そのあたりはどうかお許し下さいませ。)

    可愛いといっても良いくらい大変に小さなお店だったと記憶しています。南側に入口(引き戸だったような...)があり、初めて訪れた時は、戸のガラス越しにお店の中の様子が...その時はおなじみさんが入っておられ、狭いお店の中は、すでに、ほぼ満員のような感じでした。

    「どうしようかな...?」 と、しばらく入口の前で佇んでいたのデスガ、
    あたりはもう夕方の良い時間、まだ良く知らない街での黄昏時で独り、なぜだか急に心細くなり、帰ったのを覚えています。

    ・まるで童話にでも出て来そうな小さいお店。
    ・「伽羅」というエキゾチックな店名。

    自分はその頃、時を同じくして、劇画雑誌月刊『ガロ』(青林堂)にて、鈴木翁ニという作家を知り、その唯一無二の透明な世界観に魅了されてました。その作品中で、たしか、「伽羅」という言葉を知ったのデシタ。

    そのせいもあり、国分寺の「伽羅」は、私の中で、その鈴木翁ニ的永遠世界と勝手に接続し、さらには、稲垣足穂翁の著作『一千一秒物語』にある作品、「星を売る店」のイメージも、何故か勝手に投入され、も〜う夢のような素敵なお店に変貌していたのでアリマス・・・・・!

    シ..失礼しました!
    私の妄想話はともかく、

    本来の「伽羅」も、そういう小宇宙を持つ素敵なお店だったのでは?と確信しています。
    伽羅のマスターさん、幹夫さんにも、再会出来ると良いですね。

    コロナ以降の世界では、どんな人にとっても、より良い世界が出現することを祈りつつ、なんとか今を乗り越えて行きたく思っています。
    渡辺さんもどうぞお元気で!
    ありがとうございます。(ストレンジ・N 拝)


  • #14

    渡辺純子 (月曜日, 27 4月 2020 03:50)

    当時高校卒業後百貨店に勤めたころ、コーヒーとブルースとたばことそして、あこがれの伽羅マスがいたなぁ〜と。
    初めての社会人。
    当時はかなりスパルタでした。
    国分寺の風景は新鮮で、刺激的でした。
    伽羅ではランドセル�がおいてあり、中のノートにはそれぞれの想いが自由につづられている落書き帳がありました。今あるなら当時の自分を覗いてみたいな。武蔵美の人がよくではいりしていました。
    何をかくそう、そこで知りあった人と恋仲になりました、、
    というのは奥手の私だけで、なんか不思議な世界、ずっと彼には惹かれていました。
    国分寺の街もすっかり変わり、そう、私ももう昨年還暦すぎてしまったから、、
    伽羅マスにも幹夫にもあってみたい、、、

  • #13

    ちっちゃい頃行ってました。 (水曜日, 12 6月 2019 04:19)

    コメントありがとうございます。

    介護大変でしたね。

    離職しないって方法もあった(最近は親を見捨てる人もいるので。)のに、親のために決断されて。辛かったでしょう。誉めるのは一部で現実も世論も、反対だったでしょうに。

    でも、私も馬鹿な子供の一人なので、見捨てることは出来ませんので気持ちは本当に分かります。結婚する前は別れた原因の一つにされるほど親バカならぬ子供馬鹿です。なんたって、私は親の連帯保証人になったことがあります。自殺をされそうになりなくなくですが。でも私は兄も姉もいる末っ子なのに

    両親が最後に頼るのは末っ子の私で。逃げられないってのは一人っ子?のあなた様と似てますよね。

    あと、私は父は10年ぐらい前に亡くしてます。
    数回しか話したこともないので悲しくもなかったのですが(むしろほっとした。)、危篤のとき父以外では絶対的権力が末っ子なのにあったので「延命しないで」がすんなり通りその日に亡くなりました。

    冷たいでしょう?あなた様は本当に立派です。

    離職もとうに、結婚して数年後に精神疾患でしてます。男性は本当に大変ですよね。私は母が働いて父がヒモだったのに働いてない。本当にいつ、捨てられるか不安です。小学生からずっと捨てられるか不安なのに自立しきれない。頑張って運転免許も取ったけど自転車も乗れないので結局車ぶつけて会社やめて。

    不安なんてみんなある。でも私は恵まれてる。そんな私に言われたくないだろうけど。

    卑下なんて、謙遜でもしないでほしい。

  • #12

    ストレンジ・N (火曜日, 11 6月 2019 04:29)

    ちっちゃい頃さんへ

    再びのコメント、まことに有難うございます。こちらこそ、お気遣いあるメッセージを頂き、大変恐縮しております。感謝申し上げます。

    わざわざ、ご年齢まで書いて頂き申し訳ありません。「ちっちゃい頃さん」のご年齢でしたら、まだご両親様はご健在でいらっしゃるかと拝察したします。今後、親の介護とかがやって来る世代ですね。

    私はもう、そういう介護の時期も過ぎ、両親も亡くなり一人暮らしなのですが、社会的には介護離職という形を取りました(取らざる得ませんデシタ)。両親を介護したことに後悔はないのですが、その後の自分の社会復帰がイマイチうまく行かず、現在、引きこもり系になり困っています。 

    親の介護とか、そういう時期が来ましても、どうぞ、絶対、離職とかなさらず、ご自分の老後のことも平行して考慮されて、やっていかれて下さい。

    そうでないと、親の介護の時期は、自分の老後についても準備し始める時期だったりしますので、介護に気をとられますと、結局ご自身の老後設計がおろそかになり後々困窮します。

    私がそうです。
    私のようにならないように、(ならないと思いますが、笑)やって行かれて下さい。反面教師として見て頂けたら幸いです。 

    人生を長く生きるようになりましたが、老年期を安心して生きる・・には程遠い時代になりました。個人的には、ベーシックインカム等が導入されれば良いのに、とか思っていますが・・・。

    「ちっちゃい頃」さんが、そういうことを考える時代には、世界が平和で、あらゆるマイノリティー等の多様性も、極く当たり前のように互いに認め合う、ダイバーシティの時代になってることを願って止みません。

    「ちっちゃい頃」さんの、これからの人生に、笑顔がたくさんありますように・・・ 有難うございました!お元気で! May Peace On Earth
    (ストレンジ・N)

  • #11

    ちっちゃい頃行ってました。 (月曜日, 10 6月 2019 02:46)

    コメントありがとうございます。

    ほら貝を懐かしく語る方は私よりちょっと年上だとおもうのです。(ご察しのとおり私はアラフォー、いやアラフィフ今46です。)律儀な日本人が多い世代ですね。ロスジェネはもうちょっと下ですね。私はぎりぎりバブルなんです。私の世代で大学いってるとロスジェネですね。

    私は自由奔放ではないのですが落ち着いた田舎よりも24時間ずっと騒がしいほうが落ち着きます。

    このブログ閉鎖はもったいないです。無料でどこかないんでしょうか。

    私はいろいろネットで調べますが案外生の情報ってないんです。インスタでは今のことは分かるかも知れないけどちょっと前のことはわからない。

    どうかどこかに残っていてくれることを、私個人は我が儘だけど望みます。

    突然のコメントに愛のある返信有り難うございました。

    昭和を愛したあなた様にこれからも幸運がありますように。

  • #10

    ストレンジ・N (火曜日, 14 5月 2019 04:05)

    「ちっちゃい頃行ってました」さま、メッセージをありがとうございます。

    この、「ほら貝」関連のブログは、なぜか良く、日本のあちこちの
    方からコメントを戴きます。ご存知だった方には、何か思わず、少しでも語ってみたい場所だったのでしょうね。超マイナーな、拙ブログの中では、人気No.1のようです(笑)。

    そうですか〜、「ほら貝」のお隣りで、御育ちになられたのですね。
    、東京は中央線国分寺、自由な雰囲気漂う素晴らしい街、その中でもまた良い環境で・・・。まったく素晴らしいです。

    1970年代後半に、幼少時代を過ごされていたとしたら、ざっくり計算すると、今は40代あたり?、ロスジェネ世代の方かもしれませんね。(あっと適当に言ってます、違っていたらごめんなさい!)

    今はネットが普及してそうでもなくなりましたが、自分のような地方出身者から見ると、国分寺で御育ちになるなんて羨ましい限り、かもです。きっと、LOVE&PEACEの街に相応しい、自由闊達、元気な方になられておられると思います。

    この記事の内容は昭和、記事を書いたのは平成、記事のコメントに返事する今は、令和の時代になりました、時の流れを感じます。
    このブログも、開設当初のコンセプトのようなものが、今の時代と今の自分に、合わなくなってきてるの感じてます。

    閉鎖しようかと思ってまして、バックアップ機能がないので、
    「丸ごとHP」ダウンロードできるソフトを、昨日もリサーチしていたところです。近いある日、ネットの量子の海の世界から静かに消えてるかもですが、ご了承くださいね。

    東日本震災以後、世界は変わり、はっきりと格差社会もになり、未来に中々希望を持てない時代になったと感じますが、受難の世代でもあるロスジェネ世代を始め、私共より若い世代の方々の、自由で思いもよらない発想で、意外なところから、良い突破口が出来ることを望んでいます。

    貴女様の人生に良いことがたくさんありますように!
    ありがとうございました!           ストレンジ・N拝







  • #9

    ちっちゃい頃行ってました。 (火曜日, 14 5月 2019 02:52)

    うちのとなりにあったほら貝。生まれたときからあって、ずっとレゲエっぽい音楽と演歌と軍艦マーチ(うちの下はスナックで、となりはほら貝でとなりはソープでした。)で暮らしてました。ほら貝の人は、何故か私たちを預かったりしてたので店子なのかと昔おもってましたが違ったみたいですね。でも家を売るときにはいなくて。懐かしくて場所を移してから一度伺いました。そのあと何年もたってテレビでほら貝がやって初めてその成り立ちを知りました。ほら貝って不気味ででも無口で親切なお兄さんってイメージだけだったのに突然ヒーローだったのかもと感じたものです。お祖母ちゃんは仲良くしてたけど、両親は何も知らなくてこちらからは何もお知らせできないけど、たまに検索して見つかると何だか関係ないのにうれしいです。

  • #8

    ストレンジ・N (日曜日, 13 1月 2019 20:35)

    フリス・バーハットさま

    わぁ~、約一年振りですね! お元気でいらっしゃいましたね!
    まったく何よりです! 私ストレンジ・Nも、お陰様でなんとか元気でいます。

    かつて国分寺にあったロック喫茶『施無畏」のお友達から、
    30年振り!に、コンタクトがあったそうで! バーハットさま!おめでとう御座います! 良かったですね~、なんだか自分のことのように嬉しいです。

    可能でしたら、私の事もよろしくお伝え下さい。
    良い感じのお店でお世話になりました!ありがとうございました、と・・・。

    カウンターカルチャー好きだった自分が、時が流れた今「あれは一体何だったのだろう?」と、自分なりに検証する、そういう意図で、このブログシリーズを書き始めました。(まだちゃんと完結してない感もあるのですが・・・)、よくある独り言のような、内容の域を出ていないとも思います。

    そんな拙文が、会ったこともない、しかし、自分と同じような時代の空気を味わったと思われる方の、若い頃の縁つなぎ?に、この、jimdoという無料ツールで作成したHPがお役に立てたこと、大変大変嬉しく思います。(もっとも最近は、使い方がどんどんアップグレードし高度になって来て、根がアナログ系のストレンジは、いささか着いて行けなくなってきた感アリ、なのですが・・笑)ともあれ、まったく予想もしないところから、意外な反応があることが、ネットの妙だと思っています。

    思えば、まだ巷にネットもない1980年代初頭、別冊宝島が『メディアの作り方』という本を出してて、「一体どうやったら個人でメディアを持てるのだろう・・?」と、参考にしつつも四苦八苦していた記憶があります。

    あれから約40年・・・、その気になれば、誰でも気軽に簡単に、世界に向けてメディアを持てる時代になりましたね。しかも手のひらに乗るスマホから、文章・音楽・映像・アニメ・・・!! 通信環境に関する限り全く信じられないくらいに豊かな時代になりました。

    今回のフリス・バーバット さんのお便りに、インターネットの良質な部分を、改めて感じることが出来ました。世界中にこんな素敵な出来事がたくさん起こると良いなぁ・・・、そういうことを信じられる側の世界で生きていたい・・・。そんなことを思う冬の休日でした。

    ありがとうございました。どうぞお元気いて下さい。ますます良い事が起きますように! 変化の時代を共に生きて行きましょう。感謝! (ストレンジ・N)

  • #7

    フリス・バーバット (日曜日, 13 1月 2019 16:22)

    ストレンジ様、ご無沙汰してしまいました。ご返事ありがとうございます。お陰様で今日、施無畏の友達から連絡が取れました!30年ぶりの連絡で涙がこぼれそうです。彼が、私と同じように、昔の国分寺について検索していたら、このブログ、そして私の書き込みをを見つけたのです。幸いです。こんな嬉しいことは滅多にないです。ありがとうございました。

  • #6

    ストレンジ (月曜日, 05 2月 2018 12:45)

    案山子さん、メッセージありがとうございます。

    個人的な記憶の記録、そういう動機で書いたヒッピーブログですが、広い日本では関心持つ方も少なくないのか、時折メッセージを頂きます。

    ・・・そうだったのですか、「ほら貝」では、アブサンのほら貝スペシャルがあったのですね。アブサン、強いお酒で有名ですね、そのスペシャルなわけですから、いわんやおや・・・だったのでしょうね。

    まだ、お酒に縁がない時代に、それも昼間の喫茶の時間にしか訪れたことがなかった自分です。想像の域を出て無くて申し訳ありません。
    もっと渦中にいた詳しい方の記述があると良いですね。

    ともあれ、寒い日に、有難うございました! 
    どうぞ、お元気でいて下さい。

    ストレンジ

  • #5

    案山子 (月曜日, 05 2月 2018 06:45)

    アブサン
    ほら貝スペシャル

    もう口にすることはできないんですね

  • #4

    ストレンジ (日曜日, 04 2月 2018 00:21)

    フリス バアバットさん、今晩は、初めまして!

    国分寺にあったロック喫茶セムイについてのお問い合わせのメッセージ、ありがとうございます。よくまぁ〜、かようなマイナーなブログを見つけて頂き、恐縮です。

    関係者の方々の、その後について、の、お問い合わせということですが、バアバットさん、大変申し訳ございません。私は、殆ど知らないですよ〜。

    何故かと言いますと、
    その当時の私は、お店に行っても、お店の方々と話すとかいう、コミュニケーションが苦手な方で、(今でもわりと苦手デス)もっぱら店内で流れていた、ウエストコーストの音楽を聴いて、雑誌等を読む・・・とかいう、ジミな、関わり方だったからです。

    木造だったと思う、わりと急な階段を上ると、同じ木造のドアがあり、ドアノブが木の彫刻でヒトの手の形をしていて、ドアを開けるというのは、必然的にその木の彫刻の手と、握手という通過儀礼をして中に入る・・・。という感じだったと思います。今思えば、そのあたりにも、「施無意(せむい)」という、仏教由来の店名の精神が、現れていたのかもしれないですね。

    ロギンス&メッシーナや、リンダ・ロンシュタット、あるいは、セシリオ&カポノや、ニール・ヤング等が流れていたような記憶があります。そういう時代だったと思います。場所柄、武蔵美の学生が多かったですね。美大予備校生だった自分は、その人たちを羨望の眼差しで見ていたと思います。

    お店の方々と殆ど交流したことのない私などが、天下の国分寺の、’70年代後半のロックカフェなどを語る資格は、そもそもないのかもしれせん。きっともっと、語るに相応しい方がおられるかと思います。
    「俺だぁ〜、オレに任せろ!」という方の話も、是非、聞いて見たいものです。

    昨年、久し振りに上京したのですが、国分寺も今は、巨大なツインタワーマンションが、駅前に建設中でビックリしました。昔から漂ってるラブ&ピース感、自由で平和な街の感じは、いつまでも残っていてほしいですね。

    ご期待に添えなくて申し訳ありません。国分寺からは、約1000Km離れている当地で、急に約40年も前のことを思い出すのも、ままならないものがありました。

    関係者の方々が見つかられることを、お祈り致します。
    今夜は全国的に一段と寒いですね!どうぞ、お互い人生後半を、元気で悔いのないように生きて行きましょう。バアバットさんに、良いことが雪崩の如く起きますように!この度はありがとうございました!

    ストレンジ・N


  • #3

    フリス バアバット (土曜日, 03 2月 2018 14:05)

    1986-1987にかけて国分寺の施無意の常連だったのです。マスタアの益田義明さん、バイトの鈴木君、菊池さん、ほかの常連たちなどとどうしても連絡したいと思います。国分寺駅のExpansionでお店が弊店されてから、皆どうなったかごぞんじでしょうか。frithest@gmail.com

  • #2

    ストレンジ (木曜日, 08 12月 2016 21:35)

    「67歳の」さま、
    量子の海の最果てにあると思う、拙ブログを訪れて頂き、まことに有り難うございます。感謝致します。

    現在67歳でいらっしゃって、19歳の頃となりますと、1968年ですよね? ということは、19歳という、人生で1番元気な頃に、出来たばかりの『ほら貝』と出会われておられる…。それも毎夜通詰めて…!

    はるか下の世代であります、私などが申し上げるのも失礼かと存じますが、これはもう〜その後のご自身の人生に、相当御影響がおありになったのでは?と、拝察申し上げます。

    私は1959年生まれですが、その私が、かようなブログを書く意味があるとすれば、私の年代までくらいが、ヒッピーをリアルタイムで知る世代の最後か?という認識があるからです。

    ’60年代生まれになって来ると、もう上の世代との繋がりは薄くなり、ヒッピージュニアの世代を待つまでは、しばらくは歴史の中に埋もれていきますね。

    『ほら貝』や、そしてヒッピーカルチャーとは、何だったのか? まさにリアルタイムで体験された「67歳の」さんには、現在のお年になられても、さまざまな思いが、いまだに強烈におありの事と拝察致します。無理にとは申しませんが、もし可能でしたら、その、極一端でも、お話を伺えると、大変嬉しく思います。
    この度は有り難うございます。(ストレンジ・拝)





  • #1

    67歳の (木曜日, 08 12月 2016 01:45)

    19の頃、毎夜通い詰めたほら貝、なつかしくて泣きそう!!