遠藤周作著『沈黙』を巡る小さな旅 −1

        (映画『沈黙-サイレンス-』予告編)

    

 

 

          映画『沈黙-サイレンス-』

 

長崎は、故・遠藤周作の代表作、小説『沈黙』の舞台の地である。

 

『沈黙』(1966)は、江戸初期、キリシタン弾圧時代、潜伏を続ける隠れキリシタン信徒と宣教師の受難の歴史を通し、背教と信仰、人間の強さと弱さ、生きる意味、「神の沈黙」を問い、人間にとって、本当に大切なものは何かという、永遠の命題をテーマとする、不朽のキリスト教文学である。

 

世界20ヶ国以上に翻訳され、今も読み継がれているこの作品を、『タクシードライバー』等で有名な、アカデミー賞にも輝く巨匠マーティン・スコセッシ監督が、小説との出会いから約30年の時を経て、2016年映画化。今年1月、日本で公開された。

 

地元ということもあってか、長崎県のメディアでは、公開前から話題となり、特集番組もいくつかTV放送された。

 

ストレンジは、そういう話題の映画『沈黙 -サイレンス- 』を、映画公開2日目、小説の舞台地である長崎市内の映画館で観た。

 

映画はたいてい1人で観ることが多いが、今回は2人で観た。ご一緒した人は長崎市在住の知人。カトリックの信徒の方で、ご先祖は隠れキリシタンの方だ。洗礼名を、パウロさん(仮称)という。

 

“隠れキリシタンの末裔” というと、なんとなく、何処か陰影ある敬虔な信者さん…というイメージを、空想好きのストレンジは勝手に作りあげていたのだが、パウロさんは、そういう感じではなく、明るくてスポーツとか好きな能天気っぽい人だ。そのあたりのギャップが逆にリアルで面白い。

そのパウロさんに、映画上映のことを事前に話すと「是非見たい!」という。そういうことで一緒に鑑賞した。

 

上映時間162分。3時間近くもある超大作映画だった。

禁教下の日本に、キリスト教布教の為、ポルトガルより潜入した司祭ロドリコは、日本人信者と共に迫害と弾圧を受ける。残忍な拷問、悲惨な殉教・・・。なのになぜ、神は沈黙したままなのか?

 

信仰の根源を問う重い主題の映画だったので、「明るいパウロさんには、長くて少し重い映画だったかもしれないな…」と、お誘いしたことをストレンジはいささか後悔した。「パウロさん、長くてしんどかったでしょう?」終映後に聞くと、意外にも、「やぁ〜長いかと思ってたけど、あっと言う間だったね〜」の返事。しっかり映画の中に入り込んでいたようだった。

 

話題の映画『沈黙』を、歴史の舞台である長崎で、それも、小説中の隠れキリシタンがご先祖の方と一緒に、封切り2日目に鑑賞出来たということ。クリスチャンでもない一般人が、映画『沈黙-サイレンス-』を観るにあたって、これ以上のセッティングはない。自分は幸せ者だと思う。ご縁にひたすら感謝であった。

 

さらには、パウロさんが思いの外、「観て良かった!」と喜んでくれたこと。これがまた、何にもまして嬉しく、ストレンジは満足だった。

 

映画を観終わったパウロさんは何を感じたのか? そういうストレンジはどう思ったのか? そもそも、どうやって作品『沈黙』に行き着いたのか? 自分の中のキリスト教とは何なのか? 信仰とは何なのか? そもそも、なぜザビエルは日本に来たのか? 自分が生まれた県でありながら、隠れキリシタンについて殆ど何も知らない。映画を見て湧いて来る多数の謎…。

 

ストレンジは、少しづつだが、自分の知らない足下の歴史を探索したくなった。

 

(遠藤周作著『沈黙』を巡る小さな旅−1了、2に続く)

 

 

本日のご訪問まことに有り難うございます。良いことがありますように!

 

 

 

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